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No.7916 当方のwebサイトのイベントカレンダー、お引越しのお知らせ なぎ [2009/07/27(月)06:32:35]
笑芭さん みなさま こんにちは。(*^-^*)

先日、当方のwebサイト『花橘亭〜源氏物語を楽しむ〜』を
リニューアルいたしました。

http://kakitutei.web.fc2.com/


それにともない、サイト内の
「源氏物語・紫式部関連イベントカレンダー」の
URLを変更しましたのでご案内申し上げます。


旧URLはこちら↓

: 当方のサイト内の「イベントカレンダー」
: 
: http://kakitutei.web.fc2.com/yukari/index.html


新URLはこちらです。(*^-^)b
都道府県別にイベントをチェックしていただけます♪

http://kakitutei.web.fc2.com/calendar.html


どうぞお立ち寄りくださいませ。



私は9月に北九州市立美術館本館で開催される
源氏物語千年紀「石山寺の美 観音・紫式部・源氏物語」展が
とても楽しみです。O(≧▽≦)O 


それでは失礼します。
参考: http://kakitutei.web.fc2.com/
No.7915 白石加代子の源氏物語 なぎ [2009/06/14(日)17:32:17]
笑芭さん 泉さん みなさま こんにちは。(*^-^*)

情報カレンダー 投稿専用掲示板で、泉さんが投稿なさった
白石加代子の「源氏物語」公演の情報を拝見しまして
http://eva.genji.cc/cgi-bin/gbbs/cbbs.cgi?mode=one&namber=613&type=0&space=0&no=0

地方公演について調べてみました。

↓webサイト『る・ひまわり』(音楽が流れます!)の
http://www.le-himawari.co.jp/

↓「白石加代子の源氏物語」 のページにて
http://www.le-himawari.co.jp/stage/genji2009.html

地方公演情報が一覧で拝見できます。

私が住む九州地方の公演はないようで残念では
ありますがお近くの方は行かれてみてはいかがでしょう♪


当方のサイト内の「イベントカレンダー」にも
白石加代子さんのご公演情報を都県別に追記いたしました。

http://kakitutei.web.fc2.com/yukari/index.html

合わせてご覧ごらんください。(*^ー^)/
参考: http://kakitutei.web.fc2.com/
No.7914 Re2: 「源氏物語に登場する男君についてのアンケート」実施中です なぎ [2009/05/06(水)23:28:35]
茫人さん こんばんは。(*^-^*)

早々に「源氏物語に登場する男君についてのアンケート」に
ご参加くださいましてありがとうございました。o(^-^)o

: 多数の項目を「柏木」にしてしまいましたが (^^;

柏木がお好きですか♪

最終的にどのような結果となるか
未知数なので楽しみです。


こちらの掲示板をご覧の皆様もどうぞ奮って
アンケートにご回答くださいませ。

http://enq-maker.com/g6AXI1e

どなたが誰に投票なさったのか
わからないシステムとなっております。

回答に窮する場合は設問を飛ばされても
構いません。
答えられる設問のみ登場人物を選ばれてください。

どうぞよろしくお願いします。<(_ _)>
                   

       
参考: http://kakitutei.web.fc2.com/
No.7913 Re: 「源氏物語に登場する男君についてのアンケート」実施中です 大伴茫人 [2009/05/05(火)07:06:22]
なぎさん、こんにちわ。


アンケート投票してきました。

多数の項目を「柏木」にしてしまいましたが (^^;


                         茫人
No.7912 「源氏物語に登場する男君についてのアンケート」実施中です なぎ [2009/05/04(月)00:11:23]
笑芭さん みなさま こんばんは。

GW、いかがお過ごしでしょうか。o(^-^)o

ただいま、当方のサイトで
「源氏物語に登場する男君についてのアンケート」
を実施中です。

http://enq-maker.com/g6AXI1e

お一人様一度限り、どなた様でもご自由に
ご参加おまちしております。

主要人物からマニアックな脇役まで選択肢が広いですが
どうぞ寛容な心でお楽しみいただければ幸いです。(*^-^*)

・好きなのは?
・恋人にしたいなら?
・結婚したいのは?

といった設問が並んでいます。
女性向けですが男女問わずどうぞ。


アンケートは200名様までの回答をいただきましたら
終了といたします。
結果発表は、「源氏物語好き同盟」でいたします。

↓「源氏物語好き同盟」
http://kakitutei.web.fc2.com/genjilove.html


どうぞよろしくお願いします。<(_ _)>


GWも各地で源氏物語に関連した展覧会や
特別公開・拝観が開催されていますね。(*^-^)b

当方のサイトのイベントカレンダーも
参考までにご覧下さいませ。(*^ー^)/

http://kakitutei.web.fc2.com/yukari/index.html
参考: http://kakitutei.web.fc2.com/
No.7911 源氏物語の姫君アンケートご協力ありがとうございました なぎ [2009/03/29(日)14:34:48]
笑芭さん みなさま こんにちは!o(^-^)o


「源氏物語好き同盟」にて
http://kakitutei.web.fc2.com/genjilove.html

“源氏物語に登場する姫君を(1人〜3人まで)選ぶとしたら?”
というアンケートを実施しておりましたが
先日、100名様のご投票をいただいたので
アンケートを締め切りました。

アンケートにご参加くださった皆様
ありがとうございました。


1位から10位までのランキングは
以下のようになりました。(*^ー^)ノ


 1位 紫の上 
 2位 葵の上
 3位 藤壺中宮
 4位 花散里 
 5位 朧月夜
    雲居の雁 
 7位 明石の君 
 8位 六条御息所 
    朝顔の宮(斎院) 
10位 玉鬘 



得票数や11位以降の結果は
こちらでご紹介しております。

http://kakitutei.web.fc2.com/doumei/hime1.html


ちなみに途中集計ではこのような結果でした☆

: 第1位 紫の上
: 第2位 葵の上
: 第3位 雲居の雁
: 第4位 花散里 
: 第5位 六条御息所・朧月夜


紫の上と葵の上はやはり人気高いですね。 
明石の君はもっと上位にくるかなと思っていました。

あくまでも参考程度にとどめて
お楽しみいただければ幸いです。



源氏物語千年紀ももうすぐ終わりですね。
寂しい気持ちのほうが大きいです。(T_T)

京都だけでなく各地で「源氏物語」や
紫式部に関連したイベントが行われたことは
ありがたく思います。
参考: http://kakitutei.web.fc2.com/
No.7910 謹賀新年 なぎ [2009/01/01(木)00:24:34]
☆.。.:*☆.。.:*☆祝☆゜・*:.。.☆゜・*:.。.☆

 笑芭さん みなさま
  あけましておめでとうございます!!

      (^^)/▽☆▽\(^^) 

 今年もどうぞよろしくお願いします。(*^-^*)
 
☆.。.:*☆.。.:*☆祝☆゜・*:.。.☆゜・*:.。.☆


「源氏物語千年紀」のメインイベントが
次々と終わっていきましたが、今年も冷めやらず
探究心を持って源氏物語に親しんでいきたいと思います。o(^-^)o



↓『花橘亭〜源氏物語を楽しむ〜』
http://kakitutei.web.fc2.com/

↓源氏物語イベントカレンダー・・・情報提供もお待ちしております。
http://kakitutei.web.fc2.com/yukari/index.html

↓「源氏物語好き同盟」・・・参加者様募集中です。ъ( ゜ー^)
http://kakitutei.web.fc2.com/genjilove.html
参考: http://hanatatibana-na-gi.hp.infoseek.co.jp/
No.7909 Re2: 源氏物語に登場する姫君アンケートご協力ください なぎ [2008/12/07(日)14:46:18]
大伴茫人さん こんにちは。

: : “源氏物語に登場する姫君を(1人〜3人まで)選ぶとしたら?”

アンケートへのご回答ありがとうございました。
ご回答いただいた姫君へ1票ずつ
足させていただきました。

それぞれの姫君へのコメントもなるほどと
思いました。

ありがとうございます。



>みなさま

アンケートは『源氏物語好き同盟』にございます。
どうぞ奮ってご回答くださいませ。

『源氏物語好き同盟』
http://kakitutei.web.fc2.com/genjilove.html
参考: http://kakitutei.web.fc2.com/
No.7908 Re: 源氏物語に登場する姫君アンケートご協力ください 大伴茫人 [2008/12/06(土)22:09:20]
なぎさん、こんにちは。


: “源氏物語に登場する姫君を(1人〜3人まで)選ぶとしたら?”

のアンケートですが、私は不精でいろいろな所に出歩かないものですから、
参考までにこちらに挙げておきます。集計に入れていただいてかまいません。

 紫上………古典物語中の魅力総合第一位。
      これだけのヒロインはほかにいない。
 朧月夜……恋人・通い人としてつき合うならこの人。
      一時ではなく長期にわたって触れ合えそう。
 宇治中君…妻にするなら。
      一番ふつうの感覚をもっていて安心できる。

ということで。


                               茫人
No.7907 源氏物語に登場する姫君アンケートご協力ください なぎ [2008/11/30(日)17:26:26]
笑芭さん みなさま こんにちは!

私が管理人をしております「源氏物語好き同盟」では
“源氏物語に登場する姫君を(1人〜3人まで)選ぶとしたら?”
というアンケートをただいま実施中です。

11月27日に途中集計をとりましたところ
以下のようなランキングとなりました。


第1位 紫の上
第2位 葵の上
第3位 雲居の雁
第4位 花散里 
第5位 六条御息所・朧月夜


今後、どのような結果となるのか楽しみです♪

あくまでも当方で投票者を募って
集計をとった結果ですのでご了承くださいませ。


まだまだ投票受付中です。
ご興味がおありの方は、奮ってご参加ください。

アンケートのページは「源氏物語好き同盟」に
おいています。


*「源氏物語好き同盟」へのご参加も
お待ちしております。
どうぞお立ち寄りくださいませ。(*^ー^)/


↓「源氏物語好き同盟」
http://kakitutei.web.fc2.com/genjilove.html


11月も終わり、“源氏物語千年紀”を記念した
イベントも開催数が減ってきたように思います。

遠方に住んでいるため、あまりご講演や
展覧会に行けなかったのが残念でしたが
自分の生涯の中で“源氏物語千年紀”と
めぐり合えたことはよかったです。o(^-^)o


源氏物語や紫式部に関連したイベント情報を
以下のページでご紹介しております。
日本各地の情報で私が知り得たものを
掲載していますので
「私が住んでいるところは源氏物語と
 関係ないから・・・」と
あきらめずに、ちょこっと覗いてみてください。
ひょっとしたら、何らかのイベントが
あるかもしれません☆

自薦他薦問わず、情報提供もお待ちしております〜。

↓源氏物語千年紀と源氏物語ゆかりの地をめぐる
イベントカレンダー
http://kakitutei.web.fc2.com/yukari/index.html
参考: http://kakitutei.web.fc2.com/
No.7906 8周年おめでとうございます☆ えりか [2008/11/02(日)21:53:35]
 笑芭さん、こんにちは♪

 こちらの掲示板に投稿するのは本当に久しぶりで、ちょっとどきどきしています。

 さて、1日遅れてしまいましたが、「源氏の部屋」開設8周年、おめでとうございます
!☆!(^^)

 これからも、マイペースで長く続けていって下さいね。

 私も、こちらのサイトと出会って、「源氏物語」や平安時代の歴史への興味が膨らみ、
たくさんの知識を得ることができました。専門書も何とか読みこなせるようになって感謝
です。そして、こちらのサイトで出会った多くの素敵な方々と交流させていただけるよう
になり、自分の世界が広がりました。

 それから、もし、「源氏の部屋」がなかったら、平安ブログを開設しようなんて考えな
かったと思います。こちらの情報の多さに比べたら、拙ブログはまだまだですが、少しで
も近づけるように頑張っていきたいと思います。これからもどうぞよろしくお願いいたし
ます。
No.7905 「源氏の部屋」祝・8周年!! なぎ [2008/11/02(日)11:16:41]
☆.。.:*☆.。.:*☆祝☆゜・*:.。.☆゜・*:.。.☆

 笑芭さん
  「源氏の部屋」開設 8周年
 おめでとうございます。(^^)/▽☆▽\(^^) 

☆.。.:*☆.。.:*☆祝☆゜・*:.。.☆゜・*:.。.☆


1日遅れとなりましたが、昨日11月1日に
8周年をお迎えになり、おめでとうございます。ヽ(^o^)丿

「源氏の部屋」のおかげで、知識欲が高まり
良い刺激をいただいております。

笑芭さんと初めてお会いした時の高揚感は
いまだに忘れられません。

また、こちらの掲示板で出会った方々と縁を得て
交流させていただいている現在、なんと偉大な
サイトなのかとありがたく嬉しく思っています。


今後もマイペースに
“「源氏物語」について楽しく、時にはまじめに・・・”
笑芭さんワールドを展開されてください。゜・:,。★\(^-^ )♪
参考: http://kakitutei.web.fc2.com/
No.7903 御礼 大伴茫人 [2008/11/02(日)09:40:58]
笑芭さん、皆さん、こんにちわ


笑芭さん、『古今集』『更級まで夢をみて』のアップありがとうございました。
特に『古今集』が全掲載となったことに感謝しております。

『更級まで夢をみて』の完了で、もう出せる原稿がなくなりました。
手持ちに『語り物 伊勢物語』がありますが、これは当面出す気がありません。
したがいまして、古典作品の連載は。これでひとまず終わりになります。

今後は、もし『拾遺集』が出せるようになれば、(『後撰集』はつまらなくて
やる気になりません)、断続的にアップしたいと思っています。その節には、
またご高覧のほどよろしくお願いします。


                          大伴茫人 拝
No.7902 『更級まで夢をみて』(7−08) 大伴茫人 [2008/10/23(木)16:39:48]
 【年月は過ぎ変っていくけれど、夢のようだった時のことを思い浮かべると、
心地も乱れ、目もくれてしまうようなので、その時のことは、いまだにはっき
りとも思い出されない。
 家族の人々はみな他所に離ればなれに住んで、住み古した所に私一人いて、
ひどく心細く悲しく、物思いにふけりながら夜をあかしかねて、長いこと便り
のない人に、

  茂りゆく蓬が露にそぼちつつ人に訪はれぬ音をのみぞ泣く
                 /to
 尼である人だ。

  世のつねの宿の葎を思ひやれそむきはてたる庭の草むら
                                 】

 まず、歌の内容は、私のは、〈茂ってゆく蓬の露に濡れながら、訪れるとい
うことを人にされない寂しさ悲しさに声をあげて泣いています〉というもので、
「蓬」が茂るというのが、人の訪れがないということを意味している。「露」
は、「涙」につながる表現。尼の人のは、〈あなたのところは、在俗の家の葎
ではないですか。思いやってください、出家してこの世を捨てはてた家の庭の
草むらの深さを〉というもので、「葎の宿」というのも人の訪れがないことの
慣用表現。「を」が、詠嘆の終助詞で《二句切れ》になっている。

 さて、これが最後の記事。「年月は過ぎ変っていくけれど・家族の人々はみ
な他所に離ればなれに住んで」という書き方で、夫の死から長い年月が経って
いることがわかるだろう。もう子供たちも独立していったのだ。だから、これ
は、あの「姨捨」の時からもさらに時が経ってから、思いついてつけ足したも
の。最後が他人の歌でその内容もその人の境遇を嘆いたものなのだから、ここ
で意図的に作品を閉じようとしたわけではない。
 それに、《つけ足し》であるにしても、続編くらいのつもりがあったのなら
ば、最初にわざわざつけ足した、阿弥陀仏が「のちにまた迎えに来よう」と言
ったことについての記述がないというのもおかしい。まだ迎えがないとか、あ
の夢も無意味だったのだとか、何か書いて終わりそうなものだ。
 だから、何度も言うように、これは、もう終わっている作品のあとに、ある
時の感慨をつけ足して書いただけのもの。そして、これ以後は同じような生活
が続いただけだから、もう新たに書き足そうと思うこともなくて、これっきり
で放っておかれたのだ。私は、この作品でもかなりの《構想》を示しているし、
多くの物語の作者でもあるのだから、こんな記事で《締める》わけはない。
 これを、こういう記事で閉じることで、「自分の人生は最後まで中途半端な
ものだったのだ」ということを示そうとした、と考える人もいるらしい。また、
私が憧れていた『源氏物語』が「夢浮橋」という非常に中途半端な途切れ方を
する巻で終わっていることに倣おうとした、と取る人もいるらしい。
 でも、そんなものではない。そもそも、この作品は《回想記》なのだから、
こんな《現状》を綴ったような記事で終わるわけはない。回想記はもう終わっ
ているのだ。ただ、あの阿弥陀仏のことだけは書かないですませてしまうのが
どうしても気になったので、それを書いたついでに幾つかの後日譚を書き加え
ただけ。
 だけれど、結果としてみれば、これで終わっているのは、《私》のことを書
いた作品としてふさわしいかもしれない。なんにも《意図》どおりになんかな
らなかったのだし、何をしてもたしかに《中途半端》だった。

 ‥‥こんなものだろう。



                    〈『更級まで夢をみて』 了〉
No.7900 『更級まで夢をみて』(7−07) 大伴茫人 [2008/10/22(水)16:35:23]
 【親しく交際して、私がこうした境遇になって後、便りもして来ない人に、

  今は世にあらじものとや思ふらむあはれ泣く泣くなほこそは経れ

 十月ごろに、月がひどく明るいのを、泣く泣くながめて、

  ひまもなき涙にくもる心にも明かしと見ゆる月の影かな
                                 】

 後日譚というよりは、歌集の補遺という感じの部分。「泣く泣く」という状
況と、夫の死後の境遇に関する嘆きということで同じ趣の二首を並べたもの。
 「親しく交際して」いた人が、「私がこうした境遇になって後、頼りもして
来ない」というのは、世の中の現金さを感じさせるかもしれないけれど、ある
面では、私のほうを気遣ってくれているともいえる。歌のやりとりは時節に合
った物品に付けて行なうのが通例だから、私が生活不如意なのでそれができな
いということを考えてくれているわけだ。いつの世でもそうだろうけれど、こ
の時代には経済力がないと人とのつき合いもできなくなるのだ。
 歌は、〈私などは今は世にないものだろうと思っていらっしゃるのでしょう
か。ああ、泣く泣くなおこうして暮らしていますよ〉というもの。ここの「あ
はれ」は、「ああ」というような感動詞的な用法。
 もう一首は、〈とぎれる間もない涙に曇っている心にも、明るいと見える月
の光であることよ〉というもので、「くもる・明かし」が《対照》になってい
る。でも、感心するほどのものではない。私の場合、どうしても《本歌取り》
でなくただ自分で詠んだ歌はたいしたことがないようだ。
 それなのに、わざわざ補遺として書き残したのは、「十月」が夫の亡くなっ
た月だから。やっぱり、この時期は特別な感慨がわいてくるのだ。
No.7899 『更級まで夢をみて』(7−06b) 大伴茫人 [2008/10/21(火)17:19:07]
 さて、今の話自体はそれだけのことだけれど、ここで説明しておかなければ
ならないのは、『更級日記』という《題名》のこと。私自身は「更級」という
土地に直接の関係はないのだから、これがこの歌からつけられたことは間違い
ない。
 問題は、それがここで詠まれた歌そのものではなくて、《本歌》に出てくる
言葉だということ。逆に言えば、「更級」という言葉そのものは、《作品》に
は出てきていないということだ。こういう言葉を、私自身が《題名》につける
はずがないだろう。
 それに、この作品は、本来はもう完了しているのだ。だから、これは付け足
した記事なのだけれど、そんな所から題名をもってくるというのもあり得ない
はずだ。
 つまり、もう前に言ってあるように、この題名は、私が付けたのではなく、
後になって付けられたものなのだ。これは、この作品だけでなく、『伊勢物語』
などたくさんの例がある。そして、この作品は藤原定家卿が書写する前に世に
出た形跡はなく、『更級日記』という題名の初出は定家卿の『名月記』という
日記で、しかも、私の歌が勅撰集に入集した初めが定家卿の撰んだ『新古今集』
なのだ。こうなれば、命名者が誰かということは、まず明らかだ。
 そもそも《題名》というのは、作品のどこか特徴的な面からつけられるもの
だけれど、特に、冒頭や末尾の記述が重要性をもっている。そして、私の時代
の文章は、段落などの切れ目は入れないで続けて書いてしまうから、この話の
部分は《末尾》といってよい位置にある。そこにこれだけの有名な《歌》を踏
まえた表現があるとすれば、定家卿が目をつけないわけはない。それに、定家
卿くらいの歌人になれば、実際に書いてなくとも「更級」という言葉が書かれ
ているかのように感じられていただろう。
 ちなみに、定家卿の書写した皇室所有の『御物本/gyobutsubon』と言われる
本には、わかりやすく書き直すと、
 「常陸守菅原孝標女/musume の日記なり。母は藤原倫寧女なり。藤原道綱の
殿の母上の姪なり。『夜半の寝覚・みつの浜松・自ら悔ゆる・あさくら』など
はこの日記の人が作られたという」
 という奥書がある。ここには、さすがに『蜻蛉日記』の作者である伯母のこ
とが、特別に書かれている。『夜半の寝覚』以下の四作のうち、前の二作だけ
が後世に伝わった。『みつの浜松』というのは、『浜松中納言物語』ともいわ
れて、主人公が初めに中納言と設定されてから全く位階の昇進がなく、現実に
興味をもたなかった私らしい面のよく出た物語。『源氏物語』とは、この点で
大きく違う。
 題名のことに戻るけれど、もともとに私の付けた別の題があったわけではな
い。あったのならば、定家卿がそれを全く無視して注記もしないで他の題をつ
けはしないだろう。だから、この作品は、《世に埋もれた人》と思っていた私
にふさわしく、ただ《無題》の回想記だったのだ。
 その点からすると、後に『更級日記』という《題名》を与えられたことは、
作者である私の意図からすれば、不本意なことではある。でも、作品中のこの
部分の内容とは別に、「姨捨伝説」をふまえて考えた場合、これは見事にこの
作品の《本質》をついた題になっている。これは定家卿の功績だ。そして、こ
の題によって作品の価値や親しみやすさが増したということは、私も認めなけ
ればならない。《古典》というものはただ作者一人の《意図》だけによっては
成らない、ということだ。
 これが、前に言っておいた「その中の一つの記事が、私が思いもしなかった
事を引き起こすことになってしまった」ということ。私は、なんとつけ足した
部分によって、《古典》として伝えられる作品の作者になってしまったのだ!
No.7898 『更級まで夢をみて』(7−06a) 大伴茫人 [2008/10/21(火)17:18:19]
 ここで、『大和物語』にある「更級伝説」といわれる話を、先に紹介してお
こう。

 「信濃の国の更級というところに、男が住んでいた。若い時に親が死んだの
で、おばを親のようにして、若いときから一緒に暮らしていたのだが、この男
の妻の心にひどく情けないところが多く、この姑が老いて腰が曲がって座って
いるのをいつも嫌がって、男にもこのおばがもっぱら意地悪く性根がまがって
いることを言い聞かせたので、おばには昔のようでもなくおろそかに扱うこと
が多くなっていった。このおばはとてもひどく老いて、腰が曲がって二重にな
って座っていた。これをまたこの嫁が厄介がって、『まだ死なないもんだ』と
思って、夫によからぬことを言っては、『連れて行って深い山に捨ててくださ
いな』とばかり責めるので、責められるのに閉口して、『そうしよう』と思う
ようになってしまった。
 月がとても明るい夜に、『おばあさん、さあいらっしゃい。寺で尊い法会を
するのを、お見せいたしましょう』と言ったので、おばはこの上なく喜んで背
負われたのだった。男は高い山の麓に住んでいたので、その山のはるか上まで
入りこんで、高い山の峯の、下りてこられそうもない所におばを置いて逃げて
来てしまった。おばは、『これっ、これっ』と言ったけれど、返事もせずに逃
げて、家にかえってきて考えてみると、妻が告げ口して腹を立てさせたときに
は、腹が立ってこのようにしてしまったけれど、長年親のように自分を養い育
て、ともに暮らしてきたので、ひどく切なく思われた。この山の上から、月が
ひどく明るく出て来たのを眺めて、一晩中寝られず、切なく思ったので、こう
詠んだのだった。

  わが心なぐさめかねつ更級や姨捨山に照る月を見て   /obasuteyama

 と詠んで、また迎えに行って連れてきたのだった」。

 『古今集』には、詞書がなくこの歌だけが「よみ人しらず」のものとして載
っている。歌の意味は、説明しなくてもわかるだろう。一つだけ言っておくと、
「かねつ」の「つ」は《完了》なので、「一晩中眺めていた」という感じが、
この助動詞でよく出ている。

 さて、ここに私の後日譚が出てくる。

 【甥たちなどが、一つの屋敷にいて朝夕その姿を見ていたのに、このように
さびしく悲しいことの後には、離ればなれに住むことになったりして、誰にも
会うことができなくなっていたが、とても暗い夜に、六番目にあたる甥が来た
ので、珍しく嬉しいことに思われて、

  月も出でで闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ

 と、思わず口に出たことだった。】

 まず、「さびしく悲しいこと」というのは、夫の死と、それによる境遇の変
化が結び付いた言い方。私にとっては、精神的なことはさておいて、経済的な
面だけでも、《夫》と《生活環境》は一体化していたのだ。
 「甥」たちが同居していたことは、今までは必要がないから書かなかったけ
れど、それはこの《作品》の性格からしてわかるだろう。でも、ここで訪ねて
きたのが「六番目」の甥なのだから、何人も一緒に住んでいたのだ。それが、
夫が死んで生活が不如意になってくると、あっさり出て行ってしまった。私の
時代は、不動産は女系相続だったから、屋敷は私のもの。そこに兄の一家が同
居していたのだけれど、この時代の人間関係はほとんで《経済》で成り立って
いるから、見限って、その妻のほうの屋敷に行ってしまったわけだ。
 そうしたことを意味しながら、歌の中で、私は自分のことを「姨捨」と表現
したのだ。けれども、ここでも重要なのは、それが夫の任地であった信濃の
《歌枕》だということ。信濃守が亡くなったために甥に「捨てられた叔母」。
つまり、人間関係の中心にはやはり夫が意識されていたということだ。作品の
見掛けの上とは違って、夫の存在は大きかったのだ。
 歌は、〈伝説よりもっとひどい状態で、月も出ず闇にくれているように世間
から見捨てられてた姨捨とも言うべき叔母のところに、どうして今夜は訪ねて
来てくれたのでしょう。嬉しいことです〉というもので、さっきの歌を踏まえ
ている。それでも、本歌が「姨」を《捨てた》人が詠んだ悲しみの歌なのに対
して、これは《捨てられた》と思った側の意外な喜びの歌に《転換》してある。
こんな境遇になっても、やっぱり《本歌取り》はうまい。
 
No.7895 『更級まで夢をみて』(7−05) 大伴茫人 [2008/10/20(月)17:04:53]
 【それでも、命というものは辛いながらも絶えずにこうして長らえているよ
うだけれど、来世の安楽も願っているように叶うものではないだろうと心もと
ないが、頼みに思うことが一つだけあったのだった。
 天喜三年十月十三日の夜の夢に、私の住んでいる部屋の軒先の庭に、阿弥陀
仏/botoke がお立ちになった。「はっきりとはお見えにならず、霧一重を隔て
ているように透いてお見えになるのを、強いて霧の絶え間に拝見申し上げると、
蓮華の座が地面から三・四尺の高さにあり、御仏/mihotoke の丈は六尺ほどで、
金色/konjikiに光り輝きなさって、御手/mite を片方は広げたようになさり、
もう片方には印/in をお作りになっていらっしゃる。有難いことだとは思うも
のの、さすがに何とも恐ろしいような感じがするので、簾の近くにも進んで拝
み申し上げることもできないでいた。すると、御仏/mihotoke が、『それなら
ば、このたびは帰って、のちにまた迎えに来よう』とおっしゃる声が、私一人
の耳にだけ聞こえて、他人には聞くことができない」と夢に見て、はっと目覚
めると、十四日である。
 この夢だけを、来世での極楽往生の頼みとしたのだった。】

 ここの初めは、一応、前の続きのようには書いてあるけれど、内容は、夫の
死より三年も前の一〇五五年、私が四十八歳のときこと。そこが問題のようだ
けれど、この《作品》ではその時期は《余裕》の事柄を並べた部分だったから、
この事を省かざるをえなかったのだ。《仏・夢》のことを並べた部分はもっと
前だっただから、いくらなんでもあまりに離れた年月の事柄を、そこに書くわ
けにもいかなかった。だから、やむをえずに省いたのだけれど、どうしても心
残りだったので、後になったつけ足した。それほどのことだったからこそ、こ
れだけは年月日をはっきり書いたのだ。
 阿弥陀仏が来迎した部分について、一尺は約三十センチ、「印」は、手の位
置や指の曲げ方で悟りや誓願を象徴すること。金色に輝く仏が目の前に現れた
というのに、私は喜んで近づくことができなかった。というのも、その時点で
は、現世で《余裕》をもった生活をしていたのだし、子供たちの成育を望んで
いたのだから、まだ仏に身を任せるという気持ちにならず、むしろ「何とも恐
ろしい」と感じるような心理状態になったわけだ。その気持ちを察した仏が、
まだ機は熟していないと見て、去って行ったのだろう。
 それが夫の死後は、まだ若くて後見/ushiromi も失った長男では出世の望み
も薄く、残りの子どもたちを立派に育て上げるだけの資力も乏しくなったため
に、さすがに真剣に後世を願う心境になっていた。それを表わしているのが、
最後の「この夢だけを、来世での極楽往生の頼みとしたのだった」という記述
なのだ。だからこそ、これを書き残さないのはどうしても心残りだった、とい
うこと。
 それにしても、ここの初めの「命というものは辛いながらも絶えずにこうし
て長らえている《ようだ》けれど」という表現は、自分の命を《客観視》した
態度であって、もう積極的に生きようとしてはいなかったということも示して
いる。
No.7894 源氏物語の世界・源氏物語〜千年のかがやき〜 なぎ [2008/10/18(土)19:04:45]
笑芭さん 織姫さん みなさま こんばんは!


>織姫さん

林原美術館(岡山市)の企画展「源氏物語の世界」を
ご覧になられたのですね。

充実した時間を過ごされよかったですね!!o(^-^)o

ブログなどでも林原美術館の展示内容が良かったという記事を
いくつか拝見しますにつけ、鑑賞に行けず残念です。

明日10月19日(日)までの展示ですが
入館料300円で満足できたら充分ですよね。ъ( ゜ー^)


今回の展示ののち、林原美術館では
10月25日(土)〜11月30日(日)まで
特別展「近衛家の名宝 陽明文庫展」が開催され
藤原道長の国宝「御堂関白記」も展示されるのだそうです。

こちらも心躍ります〜♪
いつか訪ねてみたい美術館のひとつです。

↓林原美術館 公式サイト
http://www.hayashibara-museumofart.jp/


+++++

現在、東京都の国文学研究資料館(立川市緑町10-3)にて 
源氏物語千年紀記念特別展
「源氏物語〜千年のかがやき〜」開催中です。

10月31日(金)まで

↓国文学研究資料館 公式サイト
http://www.nijl.ac.jp/


こちらの展示もかなり見ごたえがあるそうですね。
     
※思文閣出版から図録が発売されているそうです。
私は図録だけでも購入したいと思っています。(*^-^*)

↓思文閣出版の図録紹介ページ 図録は1,995円です。
http://www.shibunkaku.co.jp/shuppan/shosai.php?code=9784784214372


今日現在、検索してみましたら、ネット書店では
「bk1(ビーケーワン)」のみこの図録が予約扱いと
なっていました。

今後、その他のネット書店でも販売開始される可能性が
高いと思われます。
お近くの書店でもお取り寄せできるかもしれません。


この秋は、源氏物語に関連したイベントや展覧会が
盛りだくさんですね。

よろしければ弊サイト内のイベントカレンダーも
ご覧下さいませ。(*^ー^)/

http://kakitutei.web.fc2.com/yukari/index.html

+++++

この度、「源氏物語好き同盟」を開設しました。
ご参加お待ちしております☆

http://kakitutei.web.fc2.com/genjilove.html

それでは失礼いたします。
No.7893 『更級まで夢をみて』(7−04) 大伴茫人 [2008/10/18(土)17:04:59]
 【昔から、役にも立たない物語や歌のことばかりに熱中していないで、夜昼
心にかけて勤行をしていたならば、まったくこんな夢のようにはかない人生を
過ごさずにすんだだろう。初めの初瀬詣のときに、「これは、稲荷から下さる
霊験あらたかな杉ですよ」といって一枝の杉が投げ出された夢をみたけれど、
あのとき、退出してすぐに伏見稲荷に参詣していたらば、こんな具合ではなか
っただろう。
 長年、「天照大神/amateru-onkami をお祈り申し上げなさい」と見えた夢は、
私が高貴なお方の乳母となって、宮中で暮らして、帝や后のご庇護を受けるよ
うな身になるのだろうとばかり、夢解きの人も判じたのだけれど、そのことは
一つとして叶わないで終わってしまった。ただ悲しげだと見た鏡の姿だけが当
たったのが、悲しく情けないことに思われる。
 私は、このように何一つとして心に思うことが叶うこともなくて終わってし
まった人であるから、今さら功徳を積むようなこともしないで、ただ暮らして
いる。】

 これは、もう夫の死という事態を受けての記事ではなく、人生全体の《総括》
をしているもの。「夢のようにはかない人生」、それが私が実際に過ごしたも
のだったのだ。そこには、取り返しのきかない後悔に満ちた事柄ばかりがあっ
た。それは、「たら〜だろう」というような《反実仮想》で書くしかないこと
なのだ。
 まずは、当然のことながら《物語》や《歌》にばかり没頭していた前半生へ
の《悔い》である。‥‥ついに、《歌》までも悔いることになってしまった。
 そして、信仰心が薄かったために、せっかくの好機を逃したこともいまさら
どうにもならない。それにしても、伏見稲荷は初瀬からの帰り路にあたってい
るのだから、その気になれば立ち寄ることもできたのだ。少なくとも、帰って
から代参を立てるくらいのことはできたのに‥‥。
 逆に、何度か夢に見て、自分でもこれはやや積極的に祈ろうと思った「天照
大神」については、「夢解き」までさせていたのに、その言葉は叶わなかった。
これは、これまでは気恥ずかしいから書かなかったのだけれど、私の階級の女
としては、貴公子に匿われるなどという馬鹿げた《夢想》を別にすれば、現実
に考えられる最高の事なのだ。それを夢解きされたのだから、期待しないわけ
がない。高貴な人の「乳母」になれば、その人に対して生涯にわたって関わり
ががもてる上に、その乳母子となる私の子供にもさまざまな利益が与えられる
のだ。しかも、それが「帝や后」の御子、つまり親王・内親王という方のこと
なのだから。
 それは、例の鏡に映った良い方の一面のことだったのだろう。それは実現せ
ず、悲しい方の一面だけが実現してしまった。その姿が、私の人生の《総括》
なのだ。
 そして、最後には、自分のことを、「このように何一つとして心に思うこと
が叶うこともなくて終わってしまった《人》」と表現している。これは、一番
最初の「東海道の果てよりも、なお奥の土地で育った《人》」という表現と
呼応していて、《作品の構造》が閉じて完了したことを表わしている。
 また、最後の「今さら功徳を積むようなこともしないで、ただ暮らしている」
というのが、実に私らしい。《悔恨》したからといって、もうこの人生の幸福
に間に合わなくなった勤行などはしようとしないのだし、後世を願う気も失せ
てしまったのだ。つまり、これは、もう人生を投げてしまった、ということを
表わす記述。そして、勤行の代わりには、この作品や、幾つもの物語を書いて、
時をつぶしたのだ。

 これで、この《作品》は、終わった‥‥はずだった。本来は、ここまでしか
書く気はなかったのだ。それが、何気なくこの後に余計な書き足したのだけれ
ど、その中の一つの記事が、私が思いもしなかった事を引き起こすことになっ
てしまった。
No.7892 『更級まで夢をみて』(7−03) 大伴茫人 [2008/10/17(金)17:21:12]
 【今は、残った幼い子供たちをどうにかして一人前に育て上げようと思うよ
りほかのことはなかったものが、翌年の四月に上京して来て、そのまま夏秋も
過ぎてしまった。
 九月二十五日から病の床について、十月五日に夢のように臨終を見とって思
う心地は、世の中に比べられるものがあるとも思えない。初瀬に鏡を奉納した
ときに、倒れ伏して泣いて嘆いていた姿が見えたと聞いたのは、これのことだ
ったのだ。その一方の嬉しげであったという姿は、今までにもなかった。まし
てや、この先にはあろうはずもない。
 二十三日に、はかなく荼毘に付す夜、去年の秋には、息子が立派に支度をし
て人々にかしずかれて、父に添って下向したのを見送ったのに、今は濃く染め
た黒い衣の上に忌まわしい物を着て、柩車/kyu:shaの供として泣く泣く歩いて
ゆく姿を見送り、来し方を思い出す心地は、まったくたとえようもなく、その
まま夢路にさまよって嘆いていた。その人は、そんな私をきっと見ていただろ
うか。】

 夫はなんとか満足できるくらいの任地を得て、長男もやっと旅立ちができる
ようになった。ここまでは思いにかなったことだった。あとは残りの子を育て
れば、以前の願いは満たされることになる。この時点では、私の気持ちはまず
穏やかなものだった。
 ところが、信濃の冬の寒さが老いた身体にこたえたのか、思いもしない時に
夫が京に帰って来た。そして、任地に戻らないまま半年も過ぎて、ついに亡く
なってしまったのだ。康平元年・一〇五八年、私が五十一歳のときのこと。
 ここで思い起こされたのは、娘時代に母が僧に代参させて夢に見た予言のこ
と。鏡を見る方向によって吉凶二つの姿が見えたというのだけれど、その凶相
だけが実現してしまったのだ。そして、吉相のことなどは実現すべくもない。
《作品》としては、ここに《伏線》として働いてくるから、読者にもこのこと
を覚えておいて欲しいと言ったのだ。
 そして、ここにまた服装のことが出てくるけれど、今度は前の年とはうって
かわったものだった。前で例外的に服装のことを詳しく書いておいたのは、た
だ嬉しかっただけではなくて、この《対照》のためだったのだ。「濃く染めた
黒い衣」というのは、喪服でも死者との関係の遠近によってその濃淡が定めら
れており、この場合は父だからそれが最も濃いということを言っている。「忌
まわしい物」というのは、その上に着る素服のことで、袖なしの白衣。今度も
歩いてゆく場面だけれど、なんという違いだろう。近親の女は同行しないのが
慣例だから、私はただそれを見送るだけ。それもまた去年と同じでありながら、
あまりに対照的なものだった。
 それとは別に、ある意味でここは複雑な書き方になっている。ここでも夫へ
の思いを述べるのではなくて、息子のことを中心に描いているのだ。そもそも
はっきり《夫》ということを示す言葉が一度も出てこないのだから。やはり私
の意識の中では、夫は脇役なのだ。
 でも、最後に「その人は、そんな私をきっと見ていただろうか」という記述
がある。ここでもなおはっきりとは書いていないものの、これは夫または夫の
霊のことだ。こんなふうに夫が自分を見る視線を意識するというのは、この作
品の中ではきわめて例外的だ。それでも、それをはっきり認めるのは恥ずかし
いから、「きっと」といいながら、「だろうか」とぼかしているし、「見てい
てくれただろうか」とは書かない。私は、夫のことをはっきりと表現するのが、
誰に対してではなく、自分に恥ずかしかったのだ。
 私は、夫を頼っていた。それを、幸福なときには書こうとも思わなかったの
だけれど、不幸な姿になったこの時、その不在が意識されたのだ。幸福なとき、
そのもとが夫にあるということを気持ちの上で認めたくなかったのだけれど、
いなくなっては困ることも暗黙のうちにわかっていたのだ。《甘えた妻》の最
たる心情というべきだっただろうか。
 四十九日になるまで、夫は「中有/chu:u」というものになって宙にさまよっ
ている。その中天から私をみていて‥‥《くれた》だろう。
No.7891 『更級まで夢をみて』(7−02) 大伴茫人 [2008/10/16(木)16:45:07]
 【八月二十七日に任地に下向するが、息子が一緒に下る。その子は、光沢を
出した紅の衣に、萩襲/hagigasaneの狩襖/kariaoを着て、紫苑の織物の指貫を
はき、太刀を腰に下げて、父の後に着いて歩みだすが、その人も織物の青鈍色
の指貫と狩衣を着て、廊のあたりで馬に乗った。
 一行がにぎやかに大騒ぎして下って行ったあとは、とても所在なくはあるけ
れども、任国はそれほどひどく遠い土地ではないと聞くので、以前に父が下っ
たときのように心細くなどは思わないでいたところ、見送りに行った人々が、
翌日帰って来て、「たいそうご立派な様子でお下りでした」などと言って、
「この明け方にひどく大きな人魂/hitodama が現れて、京の方角へ飛んでいき
ました」と語ったけれども、それは誰か供人の魂なのだろうと思った。そのと
きには、不吉な予兆としてなど思ってさえもみただろうか。】

 夫の下向に長男仲俊/nakatoshiも付いて行く。それが一人前に見えて嬉しか
った。だから、この作品には珍しく、服装のことが詳しく書いてある。「光沢
を出した」というのは、砧で打った衣だということ。「萩襲」は、表が蘇芳と
いう暗紅色、裏が青の色目で、秋のもの。「狩襖」は、狩衣のことで、旅行用。
「紫苑」は、経糸/tateitoに青色、緯糸/yokoitoに濃紫色を用いて紋様を織り
出した絹布。これは豪華な衣料なので、美しく立派に見えた。「指貫」は、狩
衣を着たときの袴で、裾を紐でくくる。「青鈍色」は、青みがかった藍色で、
僧衣にもなるくらいだから、初老の夫にふさわしい地味な色。この指貫・狩衣
を着て出て行った。
 この場合の「廊」というのは、対屋から南に伸びて釣殿に通じる渡り廊下の
こと。途中に中門/chu:monといって表門の内側に作られと寝殿の中庭に通じる
門がある。そこは車が通れるようになっているけれど、女が同行しないから車
ではなくて、そこから馬に乗って行った。私は、部屋の前からそこまでの息子
の歩みに目を細めたものだった‥‥のだけれど。
 その後は、「とても所在なく」過ごしたというけれど、これは、夫のことも
ないとは言わないものの、主に息子の仲俊が不在になったことによっている。
やっと息子が一人前に役立つようになって嬉しくもあるけれど、母離れして行
ってしまったのが寂しくもある、という母親らしい気持ちでいたわけだ。この
辺は、私も普通の人と変わりはない。
 信濃のことを、「それほどひどく遠い土地ではないと聞く」などと書いてい
る。私の時代には一般の人が見られるような地図もないのだし、女の知識では
このくらいのものだったのだ。
 旅の見送りに行く人は、一日目の行程をともにして同泊し、翌日に戻ってく
るのが慣例だった。そのときに、「人魂」が京の方に飛んでいったということ
が報告されたのだけれど、前日にきらびやかな様子を見送って、特に息子への
思いに浸っていた私には、それがどんな意味をもつものかなどとは真剣に考え
ても見なかったのだ。‥‥それが。
No.7890 『更級まで夢をみて』(7−01) 大伴茫人 [2008/10/15(水)16:25:28]
 【この世間を生きていくにつけ、あれこれと気苦労ばかりしているけれど、
宮仕えにしても、もとからそれ一筋にお仕えしていればどうであっただろうか、
時々出仕するというのでは、どうなるはずのものでもないようだ。年はだんだ
んに盛りを過ぎていくのに、新参の女房のようであるのも似つかわしくなく思
われるようになるうちに、我が身の病もとても重くなって、気ままに物詣など
をしたのも今は出来なくなったので、たまの出仕も絶え、生き長らえるように
も思われない状態で、「幼い子供たちが一人前になる姿をなんとしても私が生
きているうちに見届けておきたい」と寝ても覚めても心を痛め、頼りにする人
の任官の時を、待ち遠しく思い願っていた。
 すると、秋になって待望の時がやってきたようではあるけれど、望んでいた
のとは違って、ひどく不本意で残念だった。親の時から繰り返してかかわった
東国よりは近い任地であるように聞くので、仕方がないと諦め、間もなく下向
するための支度などをして、門出は、その娘である人が新しく引っ越した家に、
八月十日過ぎにする。後に何が起こるかもしらないで、その門出のときの有様
は騒々しいまでに人々が多く集まって活気づいていた。】

 ここから、私の人生の結果のような記事になる。ここの前半部分は、今まで
の《余裕》のある生活ぶりとは違って、それがこの先《暗転》に至るまでの過
程をまとめて書いてある。いわば作品の《記述の切り替え》にあたる部分。
 内容的には、もう《夢》にかかわることは全く出てこずに、《生活》に関す
ることの要点を拾い出して、それが思うに任せなかったということを言ってい
る。特に、以前には「今後が楽しみなものだった」と感じていた将来が、もう
この時期には不安定で確実とは思えないものになってきていたのだ。
 天喜五年・一〇五七年、私が五十歳のときに、秋の臨時の除目で夫が信濃守
に任官した。信濃は大・上・中・下国のうちの上国だから、その面では悪くも
なかったのだけれど、もう五十六歳の夫俊通と私たち一家にとっては、望んで
いたような畿内の国でなかったことが失望を招いたのだ。
 「親の時から繰り返してかかわった東国」というのは、父が上総・常陸、夫
が下野の国守になったことを言っている。それよりは近いのだからと、なんと
か気を慰めた。
 初めに上総の国府を立ったときもそうだったけれど、旅立ちは自宅からする
のではなくて、方角の吉凶を考えてまず仮の場所に移るのが普通。それを「門
出」という。「その娘である人」というのは、夫の前妻の娘で、その人が結婚
して男を通わせるために構えた家に移ったということ。夫は私と結婚したのが
三十九歳のときだから、その前に通っていた女がいたのは、むしろ当然。私は、
三十三歳で結婚して、その翌年に長男が生まれて、それから四年後に夫が帰京
するのだから、まだ結婚適齢期の娘はいない。
 ここで一番重要なのは、「後に何が起こるかもしらないで」という記述。こ
れは、ここから人生の《暗転》を書こうとしているのだということを、はっき
りと示している。
No.7889 『更級まで夢をみて』(6−12) 大伴茫人 [2008/10/14(火)17:02:18]
 【冬になって上京するときに、大津という浦から舟に乗ったが、その夜、雨
風が岩も揺れ動くほどに吹き荒れて、雷まで鳴りとどろくうえに、海が打ち寄
せる音や風が吹きすさぶ様子の恐ろしいことは、これで命もおしまいかと途方
にくれる思いがした。丘の上に舟を引き上げて、夜を明かす。雨はやんだけれ
ど、風が相変わらず吹いて、舟を出さない。心細い丘の上で、五日六日と過ご
す。やっと風が少しやんだ頃に、舟の簾を巻き上げてあたりを見渡すと、夕潮
がどんどん満ちてくる様はあっという間のことで、入江の鶴/tadzuが声も惜し
まず鳴き渡るのも趣深く見える。国府の人々が集まってきて、「あの晩この浦
をご出航になって、石津/ishidzuに着こうと向かっておられたら、そのままこ
のお舟は跡形もなくなっていたことでしょう」などと言うのが、心細く聞こえ
てくる。

  荒るる海に風よりさきに舟出して石津の浪と消えなましかば
                                 】

 秋に和泉に行って冬になるまで滞在するのだし、嵐の後では和泉の国府の者
たちが見舞いに来るのだから、もう兄のもとに行ったのだということは隠しよ
うがない。この人たちは、私たちの出発した日と目的地まで知っていたのだ。
 帰路には、往路と一転して大変な目に会う。国府に近い大津の港で、暴風雨
に襲われた上に、五六日も、丘に引き上げられた屋形船の中で過ごさなければ
ならなかったのだから、その心細いことといったら。
 それでも、「鶴の声」が近くでしきりに聞こえてくることには感じ入ってい
る。これは、《歌》にはよく出てくるけれど実際にこのように耳にすることは、
京にいてはありえないからだ。それから、「潮」というものの満ちてくる速さ
も、驚くべきものと感じられた。こうして《感じた》ことを、私が書き漏らす
はずがない。
 歌は、〈荒れる海に風より先に舟出をして、石津の海の浪となって消えてし
まっていたならば〉というものだけれど、問題は、その「消えなましかば」の
後に省略された気持ちが何だったかだ。後世の研究者は、そろって「悲しから
まし・恐ろしからまし」つまり〈悲しかっただろう・恐ろしかっただろう〉と
いう方向に考えているようだ。
 でも、そんな単純なことならば、わざとのように省略して、旅の記事をここ
で切ってしまったりはしない。そもそも、「ましかば」で終わる場合は《不可
能な希望》を表わして「よからまし」が省略されていることが多いのだ。そこ
から考えてもらえば、これは、〈もしここで消えてしまっていたら、この後の
不幸を見なくてもすんだのに〉という意味だとわかるだろう。
 だから、実は、この歌はこの時に詠んだのではなく、筆記時に《創作》して
挿んだものなのだ。でも、その暗い意味がはっきりわかるようなものにすると、
ここまでの《余裕》の記事の締めくくりとしてはふさわしくなくなるので、
《省略》によってどちらにもとれるようにしたということだ。

 ‥‥余裕の人生は、これで終わった。
No.7888 源氏物語の世界 織姫 [2008/10/12(日)23:00:56]
笑芭さん、みなさん、こんばんは。
ご無沙汰しております。

今日、林原美術館(岡山市)で開催中の「源氏物語の世界」展に行ってきました。
屏風や絵巻、能衣装などの所蔵品が展示されていました。
広い展示室ではないのですが、入館料300円分は充分に楽しめました。
お近くへおいでの際は是非お立ち寄りください。
参考: http://www.hayashibara-museumofart.jp/
No.7887 『更級まで夢をみて』(6−11) 大伴茫人 [2008/10/12(日)16:48:35]
 【気心が合って、このように言い交わし、世間の憂鬱なことも辛いことも面
白いこともお互いに語り合う人が、筑前に下って後のこと、月がとても明るい
ときに、「こうした夜に、宮に参って会っては、寝もしないでこの月を眺め明
かしたものなのに」と、恋しく思いながら寝入ったのだった。「宮に参って一
緒になり、昔そのままのように過ごしている」と見て、ふと覚めると、夢なの
だった。月も、もう山の端近くに傾いてしまっていた。「覚めざらましを」と、
いっそう思いにふけられて、

  夢さめて寝覚の床の浮くばかり恋ひきと告げよ西へゆく月
                                 】

 この前に出てきた同輩の一人についての《夢》。この時は、以前に越前に行
った人の場合と違って、実際に歌を贈ったわけではなく、独詠しただけ。
 歌は、〈夢が覚めてその寝覚の床が浮くばかりに泣いているというくらい、
私があなたを恋しがっていたとあの人に告げておくれ、西へゆく月よ〉という
ものだけれど、文の「覚めざらましを」は、『古今集』恋歌二の有名な、

  思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを 小野小町
      /nu
 〈思いながら寝たからあの人が見えたのだろうか。夢だと知っていたら目を
覚まさないでいたものを〉を踏まえて、覚めた後の状態を歌うように発展させ
ている。
 この点では、これも《歌》にかかわる記事に過ぎないようだけれど、これは
ちょっと裏に隠した事情があるのだ。というのは、例の《夢物語》の源資通と
いう人が、この時に大宰権帥として筑紫に下っていたのだ。それを、もうここ
でその夢を見たとは書けないから、ちょうどそちらに下っていたかつての同輩
に事寄せたもの。だからこそ、歌を送り届けることはできなかったのだ。
No.7886 『更級まで夢をみて』(6−10) 大伴茫人 [2008/10/11(土)16:53:39]
 【うららかな陽が照ってのどやかな宮の御所で、気心の知れた人と三人ほど
で世間話などして、退出した明くる日、所在なさに、この人たちと宮仕えした
昔が恋しく思い出されるので、二人にあてて、

  袖ぬるる荒磯浪と知りながらともにかづきをせしぞ恋しき

 と詠んでお贈りしたところ、一人からは、

  荒磯は漁れど何のかひなくてうしほに濡るる海人の袖かな
     /asa
 もう一人からは、

  みるめ生ふる浦にあらずは荒磯の浪間かぞふる海人もあらじを
     /o                            】

 姪が出仕している縁もあるので、この時期にも、ほんのたまには宮に出仕す
る日もあった。この時は、「うららかな陽が照ってのどやかな宮の御所で、気
心の知れた人と三人ほどで世間話などして」ということだから、悪いことがあ
ったわけではない。となると、後の歌とのつながりがおかしい。
 それは、この時のことではなく、私の歌が、〈私の袖が涙で濡れる辛い宮仕
えと知りながらも、あなたがたとともに、水を潜るように宮仕えの苦労を忍ん
だ時期が恋しいことです〉というものだから、以前にある程度定期的に出仕し
て、この人たちと「ともに」いたと言えるときのことを詠んでいるのだ。歌の
前の文もそういう意味。
 歌は三首とも、「海人」に関する事柄が「宮仕え」の《隠喩》になっている。
その点はくどく訳さないから汲み取って欲しい。私の歌の「かづく」は、「潜
る」の意味。
 一人目からの返歌は、「かひ」が「貝」と「甲斐」の《掛詞》で、〈荒磯で
漁っても何の貝も得られないように、宮仕えをしても何の甲斐もなくて、涙に
濡れる私の袖であることです〉というもので、二人目からのは、「みるめ」が
海藻の「海松布」と「見る目」の《掛詞》で、〈あなたに会える機会でなかっ
たならば、辛い宮仕えの合間を待っている人もないでしょうね。あなたに会え
る楽しみがあったから辛い勤めもしていらたのです〉というもの。この歌には、
「昨日久しぶりにあなたに会えたように」という《挨拶》の意味がこもってい
る。
 この二首は、同じ紙に並べて書いてあったもので、一人目の歌が《辛さ》を
詠んでいるから、二人目のでは、それを転じるために、わずかながらの《楽し
み》という内容にしてあるのだ。これは、一座で歌を連鎖して詠むということ
を手紙で行なった、という趣向になっている。
 そういう意味では、この記事は《歌》の手控え以上のものではないように見
えるかもしれないけれど、《作品》の上からは、このあたり一連の《余裕》の
日々の一こまを書いたものなのだ。だから、この前の太秦に籠った件も、やっ
ぱり深刻な事態だったわけではない。
No.7885 『更級まで夢をみて』(6−09) 大伴茫人 [2008/10/10(金)16:59:36]
 【人との関わりが嫌だと思われるころ、太秦の広隆寺に籠っていると、宮の
御所で親しくしていただいた方から手紙があって、その返事を書いているとき
に、鐘の音が聞こえてきたので、

  繁かりしうき世のことも忘られず入相の鐘の心ぼそさに

 と書いておくった。】

 ここは、「人との関わり」が誰とのものかによって、随分と受取り方が変わ
ってくるところ。後世の研究者の中にも《夫婦仲》とする人もいれば、宮家で
の《仲間関係》ととる人もいるようだ。
 でもそれは、この記事の焦点ではない。重要なのは、何が原因にしろ、ちょ
っとした人間関係が面白くないというくらいの時に、思いのままに参籠できる
《余裕》と、慰めてくれる《仲間》がいることのほうを書きたかったのだ。
 歌を見て欲しい。〈嫌なことが様々にあった世間のことも忘れられない。夕
暮時のお寺の鐘の音が心細く聞こえてくるにつけても〉というのだ。つまり、
まず、「様々にあった」のだから、特定のことが原因ではない。それもささい
なことがたまたま幾つか重なっただけのことで、「なんだか嫌になっちゃった」
程度のものだ。その証拠に、世間から離れて寺の寂しい鐘の音を聞いたくらい
で、あっさりと「うき世のことも忘られず」と詠んでいる。つまり、これは、
それほど深刻な悩みなどではなく、ちょっとした気紛れであって、そうした行
動も許される暮らしだったということを示しているのだ。
 もちろん、その中には、夫との小さないさかいはあった。だけれども、それ
で拗ねてこういう行動をとっても、それで夫婦仲が破綻をきたすようなことは
ないという《安心感》を夫に対してもっているからこそ、こんなことができる
のだ。‥‥この時期、私は夫に甘えていた。
No.7884 『更級まで夢をみて』(6−08) 大伴茫人 [2008/10/09(木)17:42:05]
 【三月の上旬に、西山の奥にあたる場所に行ったところ、人目も見えず、の
どやかに一面霞んでいて、しみじみともの寂しく、桜の花ばかりが咲き乱れて
いた。

  里遠みあまり奥なる山路には花見にとても人来ざりけり
                                 】

 「西山の奥にあたる場所」というのは、父が常陸から帰京してきたときに出
て来た別荘のこと。こうした遊山も出来たという《生活の余裕》と、こうした
所にも好きに行かせてくれる《夫の好意》が背景にある。一度書いたから、も
う夫のことは表に出さないけれど。
 歌は、〈里が遠いのであまり奥にある山路には、花見をしようと人も来ない
のだなあ〉というもので、『新古今集』より後では最も重要な勅撰集の『玉葉
集』に入集している。人がいないという《閑寂》な光景で、また、自分の立場
そのものの感情が込められていないという点が、中世好みになっているのだろ
う。その時代には、自然描写のようなものが多いから。
No.7883 『更級まで夢をみて』(6−07) 大伴茫人 [2008/10/06(月)17:07:18]
 【昔、とても親しくおつき合いをして、夜も昼も歌のやり取りなどをしてい
た人が、時が経っても、全く昔のようにではなかったけれども、絶えず消息を
交わしてきたのが、越前守の嫁になって下り、ふっつりと音沙汰もなくなった
ので、なんとかつてを求めてこちらのほうから、

  絶えざりし思ひも今は絶えにけり越のわたりの雪の深さに
                 /koshi
 と詠んで贈った返しとして、

  しらやまの雪の下なるさざれ石のなかの思ひは消えむものかは
                                  】

 これは、作品上は特に重要性のない記事。宮仕えしていたころに、こうして
後まで親しくつき合うことになったた人もできていたということを示している
わけだけれど、それによってこの時期の安定した生活の《余裕》も感じさせて
いる。
 私の歌は、「思ひ」の「ひ」に「火」を掛けて、〈絶えなかった思いも火が
消えるように絶えてしまいましたね。越の国あたりの雪の深さで〉というもの
で、返歌は、〈白山の雪の下に埋もれている小さなさざれ石のような私ですが、
心の中の思いは火山の火のように消えるものですか。いつまでもあなたを思っ
ておりますよ〉というもの。人の歌だからそこまでは示さないけれど、これは
二つの歌を本歌として踏まえているいる凝ったものだから、歌の手控えに残し
ておいた。
No.7882 『更級まで夢をみて』(6−06) 大伴茫人 [2008/10/05(日)16:38:15]
 【何事も思いにかなわないこともないのにまかせて、このように遠出の物詣
もして、道中を面白いとも苦しいとも感じることで、おのずから気をまぎらわ
せ、そんないい加減な参詣ではあっても物詣のご利益はあるだろうと頼もしく、
さしあたって心配に思われることなどもなく暮らしている。その生活の中では、
ただ幼い子供たちを早く思うように育て上げてその姿を見たいと思うにつけて、
年月の経過がもどかしく、「頼りにしている人がただ人並の任官をしてくれた
ら」とばかり思って暮らす心地は、今後が楽しみなものだった。】

 一連の物詣の記事の締めくくりであると同時に、人生の最も安定した時期の
暮らしの様子を直接に書いた唯一の部分。最後の「頼りにしている人」という
のは、夫のこと。
 夫の俊通は、もう長く任官していないけれど、それでも「何事も思いにかな
わないこともない」と書いてあるのは、それだけの蓄えがあったからで、夫は、
私の思いにかなうような《風流心》のようなものはなかったけれど、受領とし
ての蓄財には長けていのだ。だから、私も、こうした夫に安心して寄りかかっ
ていた。今までの記述でも書いていないだけで、それはわかると思う。私は、
世間一般から言えば、《良い夫》を持ったのだ。
 そして、この時期の私の願いは、まず、子供の成長した姿を見たいというこ
と。でも、それはまだ先で、月日が経つのが遅く思われるくらいだったから、
近々の願いとしては夫の任官だった。でも、この時にはまだ余裕があったし、
いつどこの国になれるかというのを「楽しみ」待つ段階だった。
 だから、何も暗い出来事はなかったのだけれど、今までの書き方からして、
その点がかえっておかしいと思われるだろう。実は、これは実際にやってきた
将来が暗かったことを印象づけるための《布石》なのだ。つまり、《暗転》の
前をことさらに明るく書いておいて効果を高めようという、《作品》形成のた
めの《仕組み》だ。この私が・この作品に・こんな記事を、ただ書くわけはな
い。「頼りにしている人」などというものを出してまで。
 私は、夫に頼って感謝もしていた。だけど、それを、こうした《仕組み》に
利用する以外には、そのままに書きたくなかった。そんな気持ちを表現する気
にはならなかった。現実がいくら豊かでも、私の本心が満たされたわけではな
かったし、人生から満たされないその気持ちこそが、私にこの作品を書かせた
のだ。
No.7881 『更級まで夢をみて』(6−05) 大伴茫人 [2008/10/03(金)17:22:45]
 【再び初瀬に参詣すると、初めのときに比べて格段に心強い。所々で饗応し
てくれるので、道中がはかどらない。山城の国の柞/hahaso の森などで、紅葉
がとても美しい時期だった。初瀬川を渡るときに、

  初瀬川たちかへりつつ訪ぬれば杉のしるしもこのたびや見む

 三日参籠して、退出した。例の奈良坂で、前のような小家などには、今回は
一行の人数がとても多いので、とても泊れないだろうということで、野中に仮
の庵を作って私たちを宿らせ、供人はただ野原で夜を明かす。私たちは、草の
上に行縢/mukabaki という皮の覆いなどを敷き、その上にむしろを敷いて、ご
くかりそめな形で夜を明かす。髪がしっとりと濡れるほどに露がおく。暁がた
の月が、とてもきれいに澄みわたって、たぐいない美しさである。

  ゆくへなき旅の空にもおくれぬは都にて見し有明の月
                                 】

 再度の初瀬詣。前回とはっきり違うのは、一行の人数が多かったことと、各
地で饗応されたこと。前のときは大嘗会の御禊の日に人に逆らって出たのだか
ら、お忍びのようなものだった。それに対して、今回は堂々と参詣したという
余裕がある。‥‥だけではない。筆記時には書こうとしなかったわけだけれど、
夫が同行したのだ。だからこそ、「心強い」状況だったわけだ。
 初めの歌は、〈初瀬川の波が立ち返るように再び初瀬を訪れたのだから、神
杉の御利益にも今回はあずかれるだろうか〉というものだけれど、ここにもな
にかしら自信のようなものが感じられるだろう。夫のいるという《安心感》が
にじみ出ている。今だからこそ認めるのだけれど。
 道中では、饗応されたのではかばかしく進めなかった。これも前/sakino下野
守である夫が同行していたからだ。何かのときに役立つかもしれないので関係
をつけておこうと思う人が多いのだ。伯母の『蜻蛉日記』にも、二度の初瀬詣
でそれぞれ饗応がすごいのでなかなか進めなかったということが書いてあるけ
れども、私たちでさえこうだったのだから、まして大変だっただろう。なにし
ろ、権門家の子弟で後には関白太政大臣になる藤原兼家公の第二夫人なのだか
ら。‥‥私とは違って。
 でも、そういう状況はあっさり書いてあって、寺でのことは書いていない。
《夢》を見なかったからだといえば、それもそうなのだけれど、これは、後半
の印象を強くするためなのだ。最後の歌は、〈行方もわからず心細い旅の空に
も私たちと離れずについてくるのは、都で見た有明の月だ〉というもので、こ
れは前半とは気分が全然違っている。もとがこの歌の手控えであったものに記
事を足したのだから、この歌にうまく状況が収束しないとまずいのだ。それで、
「野宿」の侘びしい様子を少しくわしく書いて、歌の気分を導いているわけだ。
 歌の本歌は、『拾遺集』別離ノ歌の、

  はるかなる旅の空にもおくれねば羨ましきは秋の夜の月  平兼盛

 〈あなたが旅立ってゆく旅の空にも遅れることがないので、羨ましいのは秋
の夜の月です。私も離れずについて行きたいのですが〉というもので、これは
人の旅立ちを送るときの歌。それを自分のことに切り替えて詠んでいて、いつ
ものことながら、こうした技法の歌はうまいと思う。
No.7880 『更級まで夢をみて』(6−04) 大伴茫人 [2008/10/02(木)16:51:22]
 【二年ほど経って、再び石山寺に参籠していると、一晩中雨がひどく降る。
その音を聞いて「旅先での雨はひどく気のふさぐものだ」と思い、蔀戸を押し
上げて外を見ると、有明の月が空だけでなく谷の底まではっきりと見えるほど
に澄みわたり、雨音と聞こえていたのは、木の根の間を潜って谷川の水が流れ
る音だった。

  谷川の流れは雨と聞こゆれどほかより異なる有明の月
                                 】

 二度目の石山詣。この「二年ほど経って」も、前回の石山詣からのことか、
鞍馬詣からのことなのか、どちらでもいいのだけれど、もう忘れてしまった。
ちなみに、前者ならば、永承二・三年、一〇四七・八年ごろで、私が四十・四
十一歳、後者ならば、その二年後くらいのことになる。
 「蔀戸」は、板の表を格子や角材で補強した戸で、上下二枚に分かれる「半
蔀」が普通のもの。これは、下半分は固定して、上半分を外側に釣り上げて留
める形で開ける。もちろん、ここでは自分で押し上げたわけではなくて下仕え
の者にさせたのだけれど、そういう当然のことは書くものではない。
 歌は、〈谷川の流れは雨と聞こえるけれど、実際に見てみると雨どころか他
所よりまさって明るい有明の月が谷の底まで照らしていることだ〉というもの
で、これは四句目が「ほかより晴るる」の形で、『新拾遺集』に入集している。
 ここと似たような情景が、伯母の『蜻蛉日記』にも出ているし、私の書いた
『夜の寝覚』という物語でも利用している。それだけ印象的な情景なのだ。
《聴覚》を《視覚》が裏切って、そのためにより印象が増している。
No.7879 『更級まで夢をみて』(6−03) 大伴茫人 [2008/10/01(水)17:01:06]
 【二三年、また四五年と隔てたことを、順序もかまわずに書き続けていくと、
すぐ続けて次々に寺に参る修業者のようだけれど、そうではなく、年月がへだ
ったことなのだ。
 春ごろ、鞍馬寺に籠った。山際が一面に霞んでのどやかである折に、山の方
から少しばかり野老/tokoro という山芋のようなものを掘って寺に持ってくる
のも、趣がある。退出する道は、桜もみな散ってしまっていたのでこれといっ
た風情はないが、十月ごろに再び参詣した時は、道中の山の風景が、この季節
は春の時と比べて格段に見栄えがするものだった。山の端は、紅葉が錦を広げ
たようである。激しく流れていく水が水晶を散らすように盛んに吹き出るよう
な様などは、どこの景色よりも素晴らしい。お寺に詣で着いて、僧坊に行き着
いた時、折からの時雨に濡れた紅葉が比べる物もないほど美しく見えることだ
った。

  奥山の紅葉の錦ほかよりもいかにしぐれて深く染めけむ

 と思って見入らずにはいられない。】

 ここの初めの記述は、重大な部分。わざわざこのように書き残すというのは、
少なくとも誰かに見られることを予期していたということだから。その対象が
問題だが、私の立場からして、自分の手記が家から外に出て一般に読まれるよ
うになるとは思っていない。菅原氏または夫の橘氏の家に保存されて、いつの
日にか子孫の目に触れる場合のことを考えて書いたのだ。もともとは、孫たち
の参考のために《歌日記》を残そうとしたのだけれど、そこについ回想を書き
込む気になってしまって出来たのが、この作品。だから、姉婿とのことを隠し
たり、事実をやや美化した話になったりするのも、仕方がなかったわけだ。
 ここも、続いてすぐに鞍馬寺参詣のことを書くと誤解されそうだから、こう
した言い訳を挿んでから続けた。また、「二三年、また四五年と隔てたことを、
順序もかまわずに」とあるように、ここから先の記事は、夫の任官以外はどの
年のことということがわからない。書く気もないし、覚えていないことも多い。
ここの二回の鞍馬詣も、同じ年のことだったかどうか定かではない。春に詣で
た時が秋の時よりも先だということがわかるだけだ。
 面白いのは、春の部分の、「退出する道は、桜もみな散ってしまっていたの
で」という書き方。この内容からすれば参ったときには咲いていた桜が退出す
るときには散っていたということになるだろうから、少なくとも数日間は滞在
したはずだけれど、その時の参籠そのもののことが書いてなくて、すぐに退出
の記事になってしまう。これは、《夢》を見なかったからだろう。また、次の
秋の時のように、その場には特別書き残すような《風情》がなかったからだと
思う。やっぱり、私が書き留める事柄は一定しているということだ。
 歌は、〈奥山の紅葉の錦のような色は、ほかよりも時雨がどのように降った
からというので深く染めたのだろうか〉というもので、時雨が葉を紅に染める
という発想は、多くの歌に出てくる。それでも、「奥山」を他の場所と比較し
て、時雨の降り方の違いを《歌想》としたのがうまい。これは孫たちに伝えて
やるだけの価値はある。
No.7878 Re2: 特別展 源氏物語の1000年 なぎ [2008/09/30(火)19:53:50]
笑芭さん 宮脇文経さん みなさま こんばんは!

明日から10月に入り、「源氏物語千年紀」関連の
イベントや講座、関連本の出版がさらに増えていますね。

地方に住んでいますと、「源氏物語千年紀」で
あるということを全く実感できないのですが
情報を発信することを楽しみとしている私としましては
「源氏物語千年紀」という今年、一人でも多くの方と
情報を共有し、笑顔と充足感につながれば・・・
と願ってやみません。



>宮脇文経さん 

横浜美術館の特別展「源氏物語の1000年」に
行かれたのですね。(*^-^*)

ゆっくり鑑賞され、見ごたえもあったようで
よかったですね!!



: 私のサイトで表紙に使っている紫式部の絵(土佐光成)も、初めて実物を確認しました。
: 意外に大きな絵ですね。石山寺所蔵ということでしたが、以前、石山寺を拝観したとき
: には気づかなかったです。惜しいことをした。


サイトで使用されている絵の実物をご覧になられたのですね!
感動も大きかったことと拝察いたします。

土佐光成の紫式部の絵を通常の石山寺拝観時に
見学可能なのでしたらぜひ見たいものです。


先日、こちらの掲示板で紹介させていただきました
画家・山口クスエさんも石山寺に絵を奉納されたそうですが
通常は見学することができないそうです。

石山寺にはそういった未公開の作品も多いのかもしれません。


「源氏物語の1000年」展の図録が通信販売で買えるので
私も近日中に申し込みたいと思います。o(^-^)o


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: 最後に首都圏向けの情報カレンダーネタです。(笑芭さん、or なぎさん、よろしくお願
いします)
: 情報カレンダー・イベントカレンダーにはしばしばお世話になっており感謝しています。

: 展示会場には無料の公開講座のちらしも置いてありました。
: 明星大学青梅校の公開講座で、源氏物語千年紀にちなんだテーマで10/4,12,18,25の4回行
: われます。定員400名、申し込み不要だそうです。

: http://www.meisei-u.ac.jp/news2008/imsbav0000000ia8.html


ご紹介ありがとうございます。

東京都青梅市や近郊にお住まいの源氏物語ファンの方に
おかれましては嬉しい情報だと思います。

弊サイト内のイベントカレンダー 東京都の項目に
簡単ではございますが情報を掲載させていただきました。

↓源氏物語千年紀と源氏物語ゆかりの地をめぐる
イベントカレンダー
http://kakitutei.web.fc2.com/yukari/index.html

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明日 10月1日から「京都eラーニング塾」の
eラーニングで学ぶ源氏物語「光源氏と紫の上」が
開講しますので楽しみにしています。

↓京都eラーニング塾
http://info.pref.kyoto.lg.jp/el/general/index.aspx

11月1日開催のスクーリング講座は参加者が
定員に達したため申し込みを締め切られていますが
ネット講座はまだまだ申し込み受付中だそうですよ♪

全国的に源氏物語の講座が盛んに行われていると
申しましても、お仕事や家庭の事情、様々な要因によって
受講できないという方も多いと思います。

私もその一人です。(>_<)

インターネットの講座はネット環境さえあれば
受講できるのがありがたいです。ヽ(^o^)丿

※残念ながら、Macには対応されていません。
No.7877 『更級まで夢をみて』(6−02c) 大伴茫人 [2008/09/30(火)16:49:02]
 【その夜、山辺/yamanobe という所の寺に泊って、疲れているのでとても苦
しいけれど、経を少しお読みしてから寝たその夢で、たいそう尊く美しい女の
人がいらっしゃる所に私が参上すると、風がひどく吹く。その人は私を見つけ
て、「何しにおいでなさったのですか」とお尋ねになるので、「どうして参上
せずにいられましょうか」と申し上げると、「そなたは宮中にあがることにな
っているのです。博士ノ命婦によく相談してみるとよい」とおっしゃったかと
思うと、夢から覚めて嬉しく頼もしくて、ますます熱心に仏にお祈り申し上げ
た。
 初瀬川などを通りすぎて、その夜に長谷寺に参り着いた。お祓いなどして御
堂/mido:にのぼる。三日参籠して、明日の早朝に退出することにして、少しの
間まどろんだ夜に、御堂のほうから、「さあ、これは稲荷から下さる霊験あら
たかな杉ですよ」と言って、物を投げ出すようにするので、はっとして気づく
と、夢なのだった。
 明け方のまだ暗いうちに出立して、途中に宿がとれなかったので、奈良坂の
京寄りにある家を探して泊った。これもひどくみすぼらしい小家である。供人
の頭/kashiraが、供人たちに「ここは、どうも怪しげな家のようだ。決して寝
るな」と言い、私たちに「何が起こっても、決しておびえ騒いだりなさいます
な。息も殺して寝ておいでなさいませ」と言うのを聞くにつけても、ひどくわ
びしく恐ろしくて、夜が明けるのを待つ間は、千年を過ごす心地がする。よう
やく夜が明け始めるころに、「これは盗人の家です。主人の女が、うさん臭い
振舞いをしていましたぞ」などと言う。
 ひどく風の吹く日、宇治川を渡るのに、網代のほんの近くまで漕ぎ寄った。

  音にのみ聞きわたりこし宇治川の網代の浪も今日ぞかぞふる
                                 】

 やっと目的地に着いたけれど、その前日に泊った所でも、長谷寺でも夢を見
る。私は、やっぱり《夢》という《非現実》のことがないと書き残さないのだ
ろう。そして、「宮中にあがることになっている」と言われて嬉しがっている
のだから、家庭に引きこもりっきりになるつもりはなかったのだ。「博士ノ命
婦」というのは、実際に私が宮中に参内した折に会った人だから、この夢はか
なり現実味があった。だから頼もしかったわけだ。
 「稲荷」というのは伏見稲荷のことで、二月初午の日に「験/shirushiの杉」
を持ち帰って自宅の庭に植え、それが枯れなければ吉だ、という占いがこの時
代には行なわれていた。これは、伯母の『蜻蛉日記』にも出てくる。
 道中は、行きも帰りも恐ろしいことがあって、特にここの「奈良坂」では前
に母が言ったのに近いことが起こっている。この時代の旅、特に山越えの道で
はいつもこうしたことがつきものだったのだ。母がとんでもないことだと思っ
たのも、体験してみれば無理はなかった。
 書き方の上で問題なのは、最後の場面。この初めが「ひどく風の吹く日」と
なっているのが、前日からの続きという感じではない。そして、ここにだけ歌
が書かれている。ということは、この初瀬詣の記事のもとはこの歌の手控えで、
そこに筆記時に道中記を書き加えたものだということ。何度も言うけれど、も
とにこういうことを書いた《日記》があったわけではなくて、《歌》以外の部
分は、あとからまとめて作った《回想記》としての作品なのだ。
 歌は、〈噂でだけ長年聞いてきた宇治川の網代に寄せる波も今日は数えられ
るくらい間近に見たことだ〉というもの。「網代」というのは、鮎の稚魚を取
るための仕掛けで、川の中に杭を扇形に打って竹や木を網のように張り渡した
もの。趣深い風物としてよく《歌題》になり、特に宇治川のものは有名だった
から、いつかは見てみたいと思っていた。この本歌は、『拾遺集』雑歌上の、

  音にのみ聞きわたりつる住吉の松の千歳を今日見つるかな  紀貫之

 〈噂でだけ長年聞いてきた住吉の松が千年を経た様子を今日見たことだ〉で、
これを宇治川の網代に移したもの。こうすると、知っている人には、宇治川の
奥に住吉の浜の光景まで遠景になっているような感じがしないだろうか。私の
歌の「かぞふる」というのも、本歌の「千歳」を生かした表現で、さざ波が細
かく「千」も寄せている様子が出ていると思う。とにかく私は、《本歌取り》
が得意なのだ。
No.7876 『更級まで夢をみて』(6−02b) 大伴茫人 [2008/09/29(月)17:12:04]
 【明るくなってはっきりと見えてしまう前にと、まだ暗いうちに出立したの
で、遅れて出る人々を待ち、また、ひどくおそろしく深い霧が少し晴れるのを
待とうと思って、九条河原の法性寺/hossho:jiの大門/daimon に車を立てて停
めていると、田舎から見物に上京してくる者たちが、水が流れるように途切れ
なく見えることだった。まったく道もよけきれない。物がわかりそうもない下
賤の子供たちまで、私達が人波をよけて逆に行くと、その車を見て驚きあきれ
ているばかりである。こうしたことを見ると、「本当に何だって出て来た旅な
のだろう」と思われるけれど、そんな思いを振り捨てて一途に仏を心中でお祈
り申し上げて、平等院近くの宇治の渡し場に行き着いた。
 そこにも、やはりこちら岸に向かって舟で渡る者たちが立て込んでいるので、
舟の楫をとる船頭たちは、舟を待つ人が数え切れないほどいるのに思い上がっ
たふうで、袖をまくりあげて、棹を顔にあててもたれかかって、すぐには舟も
寄せず、とぼけて舟歌などを歌いながら見回し、ひどく澄ましかえった様子で
ある。長い間渡ることができず、あたりをよくよく見ると、『源氏物語』に宇
治の八ノ宮の姫宮たちのことが書いてあるのを、「どういう所だというのでわ
ざわざそこに住ませたのだろう」とかねがね興味をもっていた所なのだ、「な
るほど趣ある所だな」と思ったりして、やっとのことで向こう岸に渡り、殿が
ご領有なさっている宇治殿に入ってその様を見るにつけても、「浮舟の女君が
こんな所にいたのかしら」などと、そのことがまず思い浮かんでくる。
 夜深いうちに出て来たので、人々が疲れて、「やひろうち」という所で休憩
し食事などしているその折しも、供の者たちが、「この先は盗賊で名高い栗駒
山ではないか。日も暮れかかる頃になるだろう。皆、武器を手になされよ」と
言うのを、ひどく恐ろしく聞く。
 その栗駒山を越えきって、贄野/nienoの池のほとりに行き着いた頃、日は山
の端にかかっていた。「もう宿の手配をせよ」ということで、供人たちが手分
けして宿を探し求めるが、「中途半端な所で、ひどくみすぼらしい下衆/gesu 
の小家/koie しかありません」と言うので、「しかたない」ということになっ
てそこに泊った。「家の者は、みな京に行きました」ということで、賤しい下
男が二人だけ残っていた。その夜も寝られない。この男たちが出たり入ったり
して歩くので、奥のほうにいるこの家の下女たちが、「どうしてそんなふうに
歩き回っているんですか」と問う声が聞こえてくるが、「いやなに、気心も知
れない人をお泊め申して、大事な釜でも盗まれたらどうしようと思って、寝ら
れずに見回って歩くんですよ」と、私達が寝てしまったと思って言うのを聞く
と、ひどく気味悪くもあり滑稽でもある。
 翌朝そこを立って、東大寺に寄って参拝申し上げる。
 石上/isonokamiも、「古る/furu」 の枕詞だけれど、神社が本当に古くなっ
てすっかり荒れ果ててしまっているほどに長く経った時が偲ばれたことだ。】

 宇治川でしばらく足止めを喰ったので、『源氏物語』の「宇治十帖」に思い
及んだ、‥‥ことにしてある。そうでなくとも、宇治に来た以上は、私がこれ
を書かないわけはないのだけれど、さすがにもうそれを中心として書くわけに
はいかないから、ついでに書いたということにしてあるのだ。
 「宇治殿」というのは、その昔、源融ノ左大臣の別荘だったものを、道長公
が買収し、殿つまり頼通公が伝領した。その縁で私なんかが入れるわけだ。ち
なみに、この七年後の一〇五三年に寺に改造して「平等院」になる。その一部
が「鳳凰堂」。
 「宇治の八ノ宮」というのは、光源氏の兄弟で、源氏が須磨・明石に流れて
いるときに政敵に利用されたため、源氏の復帰後に零落して宇治に隠棲した宮
のこと。そこに「姫君・中ノ君」という姉妹がいたのだけれど、私の念頭にあ
ったのは、姫君が亡くなって、中ノ君も京に移った後、薫大将によって宇治の
邸に住まわされた腹違いの妹の「浮舟ノ君」のこと。
 宇治殿に入ったときに、「浮舟ノ女君がこんな所にいたのかしら」と思い浮
かんだというのは、匂宮が、薫大将と張り合ってこっそりと浮舟ノ君をその邸
の対岸のこの宇治殿かとも思われる場所に連れ出したときのこと。宇治十帖の
男女関係のクライマックスの場面。さすがに、私もここではあっさりとしか書
いていないけれど。
 東大寺・石上神社についてはほんの簡単にしか書いていないのが、逆に面白
い。つまり、それは今回の旅の目的ではないから、私の一途な、または頑固な
性格からすると、特に書くべきものではないと考えているのだ。それでも、石
上は《歌》の枕詞としての関わりがあるから、まだ少しは感慨が漏らされてい
るけれど、あの東大寺について、この時代にはまだ女人/nyo'ninでも大仏殿に
参拝できたから見たはずなのに、「寄って参拝申し上げる」だけでおしまいな
のだから、なんともはや。
No.7875 『更級まで夢をみて』(6−02a) 大伴茫人 [2008/09/28(日)16:53:41]
 次は、立派といえば立派だけれど、どちらかと言えば異常な行動をとったと
きのこと。長いから、三つに分ける。

 【その翌年の十月二十五日、大嘗会の御禊/gokeiと世間では大騒ぎしている
頃、初瀬詣の精進をはじめて、大嘗会の当日に京を出発すると、後見役の人々、
特に兄である人が、「これは天皇一代に一度の見ものであって、田舎辺りの人
さえ見物に来るというのに、物詣に行ける日はいくらもあるではないか、それ
をその日に限って京を振り捨てて出て行こうというも、狂気の沙汰で、後々ま
での語りぐさにもなってしまう」などと言って腹を立てたけれど、子供たちの
親である人は、「どうなりとこうなりと、気のすむようにするのがよかろう」
ということで、私の言うままに出発させてくれた、その心遣いがありがたかっ
た。
 同行する従者たちもひどく見たそうだったのは気の毒だけれど、「見物など
して何になるだろうか。こういう折に詣でようという志を、仏はいくらなんで
も殊勝とおぼしめしになるだろう。きっと仏のご利益があらわれるに違いない」
と気を奮い起こして、その日の暁に京を出る。その折、行列の通る二条大路を
ことさらに通っていくと、先頭の者に御灯明を持たせ、供の人々が仏事に着用
する白い浄衣/jo:e 姿であるのを、道に設けた見物桟敷に移ろうとして私達と
行き違う大勢の馬上の人も牛車の人も徒歩の人も、「あれは何だ、あれは何だ」
と、ただごとではないように驚いて言い、あざ笑い、悪態をつく者もいる。
 藤原良頼ノ兵衛督と申し上げる方の家の前を過ぎると、その方が桟敷へお出
でになるところなのだろうか、門を広く押し開けて人々が立っているが、「あ
れは物詣に行く人らしいな。行ける日はいくらでもあるのに」と笑う中に、ど
のような考えのある人だろうか、「見物などに一時の目を楽しませて何になろ
う。殊勝にも発心なさって、仏のご利益をきっとお受けになるに違いない人に
見える。つまらないことだ。見物などやめて、このように物詣を思い立つべき
だったのだ」と、本気になって言う人が一人いる。】

 永承元年・一〇四六年、私が三十九歳の秋に、今度は初瀬詣に出かけた。こ
れ以降にも物詣の記事が続く。それがこのあたりの作品の主題だからだけれど、
一度思い込んだらのめり込むという私の性格も現れている。
 毎年十一月の二回目の卯の日に、新穀を神々に供えて天皇も食する「新嘗祭」
があって、天皇即位後の一代一度のものを「大嘗会」という。この時のは、後
冷泉天皇の即位によるもの。「御禊」というのは、それに先立って十月下旬に
天皇が賀茂川で斎戒する行事で、文武両官が美々しく供奉する盛大な行列を伴
うから、一般の人にとっては最大の見ものだった。
 それは、二条大路を東に向かって行くのだけれど、なんと、その一代一度の
見もの日に、わざわざその道を逆行していったのだ、碁盤目の京の町なら幾ら
でも行く道はあるというのに。《意固地》なんだろう、私は。昔とは変わった
といっても、それでも一般のあり方に従うということのない人なのだ。
 人がいろいろ出ているけれど、「後見役の人々」のうちの中心人物は、兄の
定義。前にも言ったけれど、なにしろこの人は「菅原の氏の長者」になる立場
の人だから、私のこんな異常な振舞いは認められないわけだ。それを、夫が認
めて出してくれたわけだけれど、「どうなりとこうなりと、気のすむようにす
るのがよかろう」という言い方は、止めてもとても無駄だ、という諦めからの
発言だ。私も、「その心遣いがありがたかった」と思っているけれど、それは、
単に旅立たせてくれたということだけでなく、性格にさからわないようにさせ
てくれたということが根本だ。
 そして、ここで、やっと夫の存在に触れたのだけれど、それは、「子供たち
の親である人」という言い方であって、自分の《夫》という立場としては書か
ないのだ。「子供たち」とあるのは、筆記時の表現だからで、ここではまだ二
人目が生れていたわけではいない。夫はこの年に帰ってきたのだから。
 兄についても、「兄である人」と遠ざけたような表現をしているのに、この
作品中で唯一、「藤原良頼ノ兵衛督」というように実名・官職を書いた部分が
出てくる。これは、本人そのものでなくてその家の人のことだけれど、自分の
胸中を代弁してくれた人がいたというのが、よほど嬉しかったのだ。なにしろ、
私というのは、宮仕えで得た少しの女房仲間を除けば、ほとんど《同じ心の人》
がいなかったのだから。
No.7874 Re: 特別展 源氏物語の1000年 宮脇文経 [2008/09/28(日)03:32:30]
なぎさん、笑芭さん、こんばんは。

ご無沙汰しておりました、宮脇文経です。

今日、この横浜美術館の展覧会に行ってきました。
県内だったので、車で行ったのですが、渋滞に巻き込まれて、往復4時間もかかって
しまいました。でも、それ以上に価値のある展覧会でよかったですね。

入ったら意外にすいていてびっくりしました。いつも、猛烈な混雑の展覧会に慣れっこ
になっていたので、これは嬉しかったですね。音声ガイドがある展示物でも、その周辺
に数人立っている程度で、展示の前でガイドを聞きながらゆっくり鑑賞することができ
ました。

私のサイトで表紙に使っている紫式部の絵(土佐光成)も、初めて実物を確認しました。
意外に大きな絵ですね。石山寺所蔵ということでしたが、以前、石山寺を拝観したとき
には気づかなかったです。惜しいことをした。

古い絵だけでなく、現代の源氏絵もいくつか展示されていました。現代の絵は、色が
きれいなのがいいですね。
図録にも大きく載っている松岡映丘の絵は、著作権保護期間も満了しているので使え
そうです。松岡映丘のもうひとつ展示されていた絵(住吉詣)は展覧会では大きくて
見栄えがしたのですが、図録では扱いが小さいですね。個人的には、こちらの絵の方が
気に入っていたので、こちらも同様に大きくして欲しかったと思いました。

> 私は遠方に住んでいるため、見にいくことがかなわず
> とても残念です。(>_<)
いつもは逆の立場です。うらやましく思っておりました。

----
最後に首都圏向けの情報カレンダーネタです。(笑芭さん、or なぎさん、よろしくお願
いします)
情報カレンダー・イベントカレンダーにはしばしばお世話になっており感謝しています。

展示会場には無料の公開講座のちらしも置いてありました。
明星大学青梅校の公開講座で、源氏物語千年紀にちなんだテーマで10/4,12,18,25の4回行
われます。定員400名、申し込み不要だそうです。
5〜6月に青山学院大学(渋谷)で行われた無料公開講座では抽選があったようですが、今回
は、地の利が悪い、定員が多い(250名⇒400名)、大学が格下、と三拍子そろっているので
、
行きさえすれば受講できそうですね。
Webページもあったので、そのURLを以下に示します。
http://www.meisei-u.ac.jp/news2008/imsbav0000000ia8.html
No.7873 源氏物語画家 なぎ [2008/09/28(日)01:08:41]
笑芭さん みなさま こんばんは!

源氏物語ファンの皆様にご紹介したい方が
いらっしゃいますので投稿します。

東京都内にお住まいの源氏物語画家
山口クスエさん をご存知でしょうか。

佐賀県鹿島市のご出身で、現在84歳の
現役画家としてご活躍です。

源氏物語を描いて35年!

54帖すべてを絵として描きあげたいと
おっしゃっていました。

先日、山口クスエさんとお会いする機会を
得まして作品をご一緒に拝見させていただきました。

言葉にすると陳腐ですが作品のひとつひとつに
とても感動しました!!

源氏物語を描いた絵といいますと日本画を
イメージされる方が多いと思いますが、
どちらかといえば山口さんの作品は
洋画のタッチに近いです。


作品の写真撮影、撮影した写真のサイトへのUP、
ファンページの作成の許可をご本人より
いただきましたので

この度、ファンページを作成いたしました。o(^-^)o

よろしければ、下記URLにお立ち寄りくださいませ。

来月下旬に東京都内で個展を開催予定だそうです。

詳細をお聞きしましたら、イベント掲示板のほうで
お知らせさせていただきますね。
参考: http://kakitutei.web.fc2.com/yamaguchi/kusue1.html
No.7872 『更級まで夢をみて』(6−01) 大伴茫人 [2008/09/27(土)17:26:24]
 《夢物語》は、終わった。
 そして、一転してこのようになったのだ。

 【今は、昔の馬鹿げた思いがひどく身に沁みて後悔されるようになり、親が
参詣に連れて行ってくれなかったことも非難したい気持ちで思い出されるので、
「今は、ただひたすら裕福に羽振りがよくなって、幼い子供も思い通りに大切
に育て上げ、私自身も倉に積みきれぬほどの財産を蓄え、後世が安楽であるこ
とまでをも願おう」と心を励まして、十一月の二十日過ぎに、石山寺に参詣す
る。
 雪が降り続き、道中の景色までも風情があったが、なにより逢坂の関を見る
につけ、「昔ここを越えたのも冬だった」と思い出される、その折も折、あの
時と同じように風が激しく吹いている。

  逢坂の関のせき風吹くこゑはむかし聞きしに変らざりけり

 関寺が立派に建立されているのを見るにつけても、上京の時に、まだ荒造り
のお顔だけが眺められた折のことが思い出されて、年月の過ぎてしまったこと
も感無量に思われる。
 打出/uchiideの浜のあたりなどは、昔見た光景に変わりがない。暮れぎわに
石山寺に着いて、沐浴する斎屋/yuya におりて身を清め、本堂にのぼると、人
の声もせず、山風が恐ろしいように思えて、勤行を中途にしてついうとうとと
眠った夢の中で、「中堂から麝香/jako:を頂戴しました。早くあちらへ知らせ
なさい」と言う人があるので、はっと目が覚めてみると、「夢だったのか」と
思い、「きっと良い事の起こる夢なのだろう」と思って、一晩中勤行する。
 翌日も、ひどく雪が降り荒れ、宮家で親しくして頂いていた方で一緒に参籠
していらっしゃる人と語り合って、心細さを慰める。
 三日参籠して、寺を退出した。】

 ここからが、この回想記の執筆時に直結する記事になる。その意味では、こ
こからを作品の後半と考えることもできる。とにかく、私は変わったのだ。
 昔の馬鹿馬鹿しさが身に沁みた私は、親を恨む気持ちにさえなっている。物
詣に連れて行ってくれていればもっと早く信仰心を持てたのに、というわけだ。
今思えば、その頃に連れられて行っても信仰心など持たなかったとは思うけれ
ど、ここでは、この時そういう気になっていたということが重要なのだ。
 そして、もっと注目して欲しいのは、その信仰心によって願うところが、根
本条件として「ただひたすら裕福に羽振りがよくなって」ということだったと
いうこと。そして、それは、「子供の育成」「自己の後世」の願いという二つ
の事柄のためなのだ。これは、この時代としては《常識的》なことであって、
私もやっと《人並》のことを思うようになったわけだ。
 親には連れていってもらえなかったので、今は自力で参詣しようという気に
なったのだけれど、馴れないことだから、「心を励ま」す必要があった。そう
してまで宗教施設に行こうとしたことが、今までとは大違いなのだ。これは、
寛徳二年・一〇四五年、私が三十八歳のときで、例の《夢物語》の人との最後
のすれ違いの翌年のこと。
 道中では、少女時代の上京の折のことを思い出して、歌に、〈逢坂の関近く
を吹く関風の音は、少女の頃通ったむかしの時と変わらないことだ、私と違っ
て〉と詠んでいるけれど、「変らざりけり」が強い詠嘆で、懐かしさとともに、
《夢見る少女》から《現世利益を願う主婦》に変ってしまった自分の境涯への
感嘆が籠っている。あれから二十五年‥‥。あの時には「関寺」はまだ造仏途
中だった。
 参籠中にまた夢を見た。この夢は意味不明で、特に「あちら」の指す場所が
わからない。それでも、それを「きっと良い事の起こる夢なのだろう」と思っ
て、その事の実現のために勤行に励むところは、以前に夢のお告げをほったら
かしにしたのとは、本当に大違い。
 この参籠には同行する人がいたのだけれど、これは『枕草子』にも、参籠の
折には同じ心でものを言い交わせる人を必ず一人でも何人でも誘いたいものだ、
ということが書いてあるように、この頃の慣例。別に、おしゃべりをしている
から不信心ということはない。
 でも、ここの記事から感じられるだけでも、やっぱり変らないことが多くあ
る。この時の事実としてだけでも、夢を見るまではあまり勤行に熱心でもなく
て、風が恐ろしいのでやめて居眠りしてしまっている。《夢》を見たから励ん
だのだ。
 それから、もっと重要なのは記述態度。まず、「親」の以後の消息が書かれ
ないで、生死さえもわからない。また、子供の成長を願うことを書いてはいる
けれど、その誕生の時の感想さえないし、この年は夫が帰任したのにそんなこ
とは全く書こうともしていない。つまり、《思い》が変わったからといって、
それを回想する《姿勢》には何の変わりもないのだ、この人は。
No.7871 『更級まで夢をみて』(5−15c下) 大伴茫人 [2008/09/26(金)17:11:23]
 その後は知られたくないと思ってはいたけれど、その翌年・翌々年に再会の
機会が訪れた。
 先に歌の意味を説明しておくと、初めのは、〈どうしてそれほどまでに思い
出したのでしょう。木の葉にかかる気まぐれな時雨のようになおざりな気持ち
で私たちとお話しになっていただけですのに〉という、わりと普通の歌。縁の
遠い男の人に対して、こちらも懐かしく思っていた、などという歌を詠むはず
はない。後のは、歌の技巧の説明をするとひどく面倒になるので、実意だけを
いうと、〈かしましい人間をみてあの人に焦がれて出てきた私の心は解っただ
ろうか、あの人は〉というもの。
 出会いの機会は、ほとんどすれ違いのような状態で終わってしまったけれど
も、重要なのは、「その琵琶の音が聞きたくて、私もそのような機会を待ち望
んでいた」と書いてあり、また、歌でははっきりとあの人を慕う気持ちを詠ん
でいること。独詠だけれども、これは、私が男に対して示した唯一の《恋心》
なのだ。
 これは、長久四・五年、一〇四三・四年、私が三十六・七歳のときで、前の
は内裏が焼亡したときなので一条院、後のはそれも焼亡したので東三条院を仮
の内裏としていたときのこと。前の場面では、管絃の宴が果ててから、あの人
が経文を唱誦/sho:ju しながら歩いてきたわけだけれど、これも歌謡の一つと
みなされていて、特に宗教心からということではない。それが、細殿の戸口に
人がいるとみて語りかけるわけだけれど、その応対ぶりから私だということが
わかったのだ。そして、「ぜひとも琵琶の曲を自分の知っている限り弾いてお
聞かせしたいものです」と言ったというのだから、かなり積極的になっている。
これは、あの時雨の夜のときとはずいぶん違う感じだけれど、こういう態度の
ほうが、本当のあの人のあり方だったと思う。
 というのは、私は最後にあの人のことを、「人柄もきまじめで、世間の人の
ように好きがましい心をもたない人」と書いているけれど、これはかなりの
《虚像》なのだ。この源資通という人は、高名な歌人で年上の相模という女房
に言い寄って、相手から拒否されながらもその仲をむしろ得意気に人に吹聴し
て歩いていたような人だった。相当に俗なところがあって、その才芸を武器に
しながらかなり色好みをして歩いたようだ。ここにその一端が、琵琶を聞かせ
るという言い方で出ているわけだ。それから、「私のことを細かい詮索もしな
いで」と書いたけれども、実際には私の素姓を調べて、それがわかったので興
味を失ってそれっきりにしたのかもしれない。私の時代としては、そのほうが
自然な態度だ。
 ‥‥《虚構》、それはたしかなのだけれど、まがりなりにも私の一生にただ
一度だけ、現実のなかに《夢見る》素材が得られたのだ。それを私だけの《夢
の思い出》として何が悪いだろう。外的な事実ではなかった、けれども、内面
では起こったことだったのだ。
 これで、《夢》は閉じる。ここの二つの話のそれぞれ最後の「全くない」
「終わってしまった」という言い切りがそれを示している。この簡潔な筆遣い
に凝縮されているのだ、‥‥私の思いが。
No.7870 『更級まで夢をみて』(5−15c上) 大伴茫人 [2008/09/26(金)17:10:36]
 【翌年の八月、宮が内裏へ参内なさるのにつき従っていったときに、一晩中
殿上人の控えの間で管絃の遊びがあったが、この人が伺候していたということ
も知らずに、その夜は下の局で夜を明かし、廂の間の細殿の引戸を開けて外の
景色を眺め、有明の月がかすかに浮かんで美しいのを見ていると、宴が終わっ
て出てくる人たちの沓の音が聞こえて、中には経文を吟じながらくる人もいる。
その誦経/zukyo: をしていた人が、この引戸の戸口に立ち止まって、何か話し
かけてくるので、応対すると、その人はふと私だということに気がついて、
「あの時雨の夜のことが、少しも忘れられず恋しく思い出されています」と言
う。それに対して、言葉多く答えている場合ではないので、

  何さまで思ひ出でけむなほざりの木の葉にかけし時雨ばかりを

 と詠んだけれど、それも言い終わらないうちに、外に人々がまた来合わせた
ので、そのまま局の奥に引き下がって、その夜に退出してしまった。だから、
あの人が、時雨の夜にいっしょにいた朋輩を訪ねて、私に返歌をことづけたな
どということも、後になって聞いた。「『あのときの時雨が降るような夜に、
ぜひとも琵琶の曲を自分の知っている限り弾いてお聞かせしたいものです』と
のことでした」と聞いたので、その琵琶の音が聞きたくて、私もそのような機
会を待ち望んでいたけれど、全くない。

 次の年の春ごろ、のどやかな夕方に、あの人が参上しているようだと聞いて、
時雨の夜にいっしょだった朋輩とともに膝で歩いて御簾ぎわまで出ようとした
けれど、外に人々が参り、内にもいつもの女房たちがいたので、途中であきら
めて戻ってしまった。あの人も折が悪いと思ったのだろうか、わざわざもの静
かに落ち着いた夕暮を見計らって参上したということだったのに、騒がしかっ
たので退出したようだ。私は、

  加島見て鳴門の浦に漕がれ出づる心は得きや磯のあまびと
  /kashima
 とつぶやいただけで、そのままになってしまった。あの人は人柄もきまじめ
で、世間の人のように好きがましい心をもたない人なので、「誰それは」など
と、私のことを細かい詮索もしないで、終わってしまった。】
No.7869 『更級まで夢をみて』(5−15b下) 大伴茫人 [2008/09/25(木)17:01:52]
 春秋の優劣判定は、日本でも『万葉集』や『源氏物語』などに見られるよう
に、遊びを込めた優美な言い争いがよく行なわれていた。それが一種の遊びだ
からこそ、私は、わざと朋輩の逆に、また「月は秋」という常識にさからって、
〈薄青い空に、花も一つになって霞ながら、おぼろに見える春の夜の月の素晴
らしいこと〉と詠んでみせたのだ。
 それを受けて、あの人が、〈今晩から、まだ自分の命がもしも続いていたら、
あなたが詠んだように春の夜をあなたと会ったことを思い出すよすがとしまし
ょう〉というように、お決まりの「命」のあてにならなさをもちだしながら、
私の言い分を認めた歌を詠んだ。すると、朋輩が、これもわざとすねてみせて、
〈二人とも春に心を寄せてしまったようだ。私だけが見るのでしょうか、秋の
夜の月は〉と詠んだのだ。これをあの人がとても面白がるのだけれど、それは
当然で、このくらいのやり取りが即興でできれば、応対役の女房として上出来
だと言える。
 ところが、こうなると、あの人もどちらにも味方できなくなってしまったの
だけれど、ここで何とも《みやび》な話のもっていきかたをした。話題を春で
も秋でもない冬のことにして、しかも耳を傾けないではいられないような話を
持ち出し、春秋の判定をそらした上で、最後には話を戻しながら、今晩がこれ
からの思い出になるだろう、と心に残るようなことを言って切り上げたのだ。
こんな話し方ができるなんて、なんという素晴らしい人。‥‥と思いたかった。
 そんな人に、私は好印象を残したのだから、別れた後は自分の素姓を知られ
ないことを願った。実体を知られてしまえば、ただの受領階級の、盛りを過ぎ
た中年女に過ぎないのだから。
 ところで、あの人が後一条天皇時代の斎宮の裳着、つまり幼少で伊勢斎宮に
なった皇女の成人式の使者に立ったのは、この時から十七年前のことで、その
時に応対した古女房は、円融・花山・一条・三条・後一条天皇の五代にわたっ
て斎宮に仕えていたことになる。
 ‥‥この話を私はいつ聞いたのだろうか。本当にこの場だったのだろうか。
‥‥嘘だ。いつかどこかであの人がこの話を語るのを聞いたのは、事実。けれ
ども、それをこの場面に仕組んだのは、私。
 このままにしておきたかったけれど、後でばれてしまった。というのは、こ
こに書いた私の歌が『新古今集』に採られて初めての勅撰集の入集になったの
だけれど、その詞書に、「女房・上人/uebito が大勢が集まっていたときのも
の」と書かれてしまったのだ。この「上人」の一人はこの人のことだけれども、
ここに書いたようなしみじみとした情趣ある場面ではなかったのだ。つまり、
ここに描写されたのは、この作品で私が《創作》した《虚構》の場面‥‥こう
あって欲しかったという《夢》の場面。
No.7868 『更級まで夢をみて』(5−15b上) 大伴茫人 [2008/09/25(木)17:00:59]
 【「あなた方は、春秋/haru-aki のどちらにお心が引かれますか」と尋ねら
れたときに、朋輩が秋の夜に心を寄せてお答えしたので、私はそうそう同じよ
うには言うまいと思って、

  あさみどり花もひとつに霞みつつおぼろに見ゆる春の夜の月

 と答えると、その人は何度も何度もこの歌を口ずさんで、「それでは、秋の
夜はお見捨てなさったということですね」

  今宵より後の命のもしもあらばさは春の夜を形見と思はむ
      /nochi
 と詠んだので、秋に心を寄せた朋輩が、

  人はみな春に心を寄せつめりわれのみや見む秋の夜の月

 と詠むと、その人はとても面白がりながら、どちらに味方するわけにもいか
ず困った様子で、
 「中国などでも、昔から春秋のどちらが勝るかという評定は出来ないでいる
と聞いていますが、今、このように定められたお二人のお心は、思うに、何か
わけがおありになるのでしょうね。自分の気持ちがそれにひかれて、その折節
の、しみじみとも面白いとも感じたりすることのある時、そのままその折節の
空の様子も月も花も心に深く残るもののようです。ですから、あなた方が春秋
の優劣をお決めになったことのわけを、ぜひ伺いたいものです。
 ところで、冬の夜の月は、昔から興ざめなものの例として引かれていました
し、またとても寒くもあって、特に眺める気も起こりませんでしたが、斎宮の
御裳着の勅使となって伊勢に下向しましたとき、明朝には帰京しようとして、
何日かふり積もった雪に月が明るく映え、旅先だと思う気持ちも加わって、心
細さが身に沁みながら、おいとまを申し上げに参上すると、他所とは違い神域
だという思いもあって、そら恐ろしい気がしておりましたが、私をしかるべき
部屋に召して、円融院の御代からお仕えしていたという女房で、まことに神々
しい感じで古風な相貌の人が、実にたしなみの深い物腰で、昔の思い出話など
を語り出し、涙をもらしなどして、よく調えられた琵琶を差し出しなさって一
曲所望されたのは、この世のこととも思われず、夜が明けるのも惜しく、京の
こともすっかり頭から消えてしまうほど感銘を受けまして以来、冬の夜の雪が
降っている夜は、その情趣がわかるようになり、火桶を抱いてでも、必ず縁先
に出て外の景色を見ずにはいられないようになりました。
 あなた方も、春秋にそう心寄せられるからには、必ずそうお思いになるわけ
があるのでしょう。こうした時をもったからには、今晩からは、暗い闇の夜の
時雨がぱらつく折は、また心に沁みて感じることになるでしょう。今宵は、斎
宮の雪の夜にも劣るとも思えません」
 などと語って別れた後は、私が誰だとも素姓を知られまいと思っていたけれ
ど、】
No.7867 『更級まで夢をみて』(5−15a下) 大伴茫人 [2008/09/24(水)17:49:44]
 この人は、源資通/sukemishi。芸事を家伝とする家の継承者で、蹴鞠の名手
であることをはじめとして、催馬楽などの郢曲/eikyoku・琵琶・和琴・笛に堪
能で、歌も『後拾遺集』以下の勅撰集に四首入集/nisshu:し、歌合わせにも参
加して歌の読み上げ係の講師/ko:jiも勤めている。この初めの出会いのときは、
長久三年・一〇四二年、私が三十五歳で、この人は三十八歳。蔵人頭という天
皇側近役の長官で貴族の出世コースに乗っている。こんな人が身近に現れて声
をかけられたら、誰だって少しは夢見てしまう。
 「不断経」というのは、「法華経・最勝王経・大般若経」などを一定期間に
途切れることなく読誦/dokuju する催しで、このときは、祐子内親王の故母宮
のための法要。一日を十二等分して僧が輪番で読経し続けるのだけれど、それ
が声の良いという評判の僧の番になったので部屋の入り口まで聞きに出た場面。
この時代には、仏教の儀式は美的陶酔をもたらすように仕組まれていて、それ
によって信仰心をあおっていたから、美声の僧というのは重要な存在だったの
だ。また、仏教では声や音楽で悟ることもあるとされていたのだけれど、私は
宗教心が薄いから、単によい音楽でも聞くつもりだっただけ。その証拠に、お
経の文句に聞き入ってはいなくて朋輩とおしゃべりをしている。
 「上達部」は公卿のことで、三位以上と四位の参議。「殿上人」は、四位・
五位のうち清涼殿の殿上の間に昇殿の許された人と六位の蔵人。これらが上級
貴族で、その人たちへの応対は、たとえば清少納言ノ君のような特定の女房が
行なうことになっている。その応対の仕方しだいで主人の評判が変わってしま
うのだ。特に、知的で洒落た会話ができなければ勤まらない。また、それぞれ
の人に贔屓の女房がいて、それが応対する。男たちは、こうした女房を多く抱
えているサロンに集まるから、上級貴族は、そうした資質のある女房を競って
揃えようとしたのだ。
 その点で、私は自分自身でその資格がないと思っていたのだけれど、この人
の優雅な雰囲気に引きずられて応対することになってしまった。この人の側か
らすれば、こうしてちゃんと会話のできる女房がいるのに、それが「まだ私の
知らない人」であったというのが、ちょっと嬉しい驚きだったわけだ。この人
たちは、どこにどういう女房がいるかという情報は漏らさずつかんでいるのだ
から。
 つまり、はっきりそうは書いていないけれど、この人ががここに長居をして
まだいろいろと話を続けるのは、単に情趣豊かな晩であったということではな
くて、知らない女房、つまり私と同座したということのほうに重点があったは
ずなのだ。この私のために、これほどの人が。‥‥そうなれば《夢物語》を作
りたくなるのも、もっともだろう。これは、今の私でも認める。
 「琵琶」は、抱いて弾く四弦の弦楽器。「筝」は十三弦で、「琴」は弦楽器
の総称。「琴/kin」と読む場合は、七弦のもののことになる。「和琴」は六弦。
これで弦楽器のすべて。「風香調」は、琵琶二十六調の一つで、華やかな調べ。
「横笛」は、七孔の笛で、本来の読みは「おうてき」だけれど、これが「王敵」
に通じるためにこのように読み替えたものらしい。「篳篥」は、中国渡来の竹
製の縦笛で、鋭く哀調を帯びた音を出す。
 こうした雅びやかな楽器の多くを話題として持出して、季節ごとの風情を人
を引きつける調子で語ったのだから、それを聞く私にとって、それこそ夢のよ
うなひと時だった。十月上旬だから、初冬の月のない夜のこと。この、暗くて、
語る人の雰囲気だけが伝わってくるというのも素敵だった。‥‥《夢物語》の
上では、だけれど。
No.7866 『更級まで夢をみて』(5−15a上) 大伴茫人 [2008/09/24(水)17:48:56]
 さあ、これから、私の実人生でただ一度、私自身がかかわった《物語的》な
事柄が起こる。そして、初めにばらしておくけれど、これは私の《創作》ない
し《虚構》なのだ。おいおい説明するけれど、全体が長いので三つに分けて示
そう。

 【上達部や殿上人などに対面する女房は心得のある決まった人のようなので、
もの馴れない里人の私などは、そんな者がいるということさえ知られてよいも
のでもないのに、十月上旬のとても暗い夜、不断経で声のよい人が読経する時
刻だというので、そちらに近い戸口にもう一人の朋輩と二人だけで出て行って
聞きつつ、話をしながら物にもたれ臥していると、やってきた人がある。私と
一緒にいた人が、「逃げ帰って局にいる人を応対に呼び寄せたりするのも気が
利きません。とにかく、なんでもその場合によります。このままにしていまし
ょう」と言うので、その人の横にひかえて聞いていると、その殿上人の、落ち
ついてもの静かな様子で話などする態度は、なかなか好もしい。
 「もう一人はどなたですか」などと私のことを尋ねて、世間の男がよくする
ような無遠慮な好色がましい言い掛けなどもせずに、世の中のしみじみした話
などを細やかに語るので、自分の役ではないとは思うものの、そうかたくなに
黙り込んでいるわけにもいかないお話ぶりだから、私も朋輩もお答えなどする
のを、その人は「まだ私の知らない人がいたのですねえ」などと珍しがって、
すぐには腰を上げそうにもない様子でいるが、月はもちろん星の光さえ見えず
暗いところに、時雨が時おり木の葉にかかる音が趣深いのを、その人は「かえ
って優美で風情のある夜ですね。月がくまなく明るいのも互いの姿があらわに
見えて面映ゆいものでしょう」と言う。
 それから春や秋の優劣などを言って、「季節に従って目にする情景としては、
春霞が趣深く、空ものどやかに霞んで、月の顔も明るすぎることもなく、光が
空遠くに流れるように見えているときに、琵琶の風香調/fuko:dyo:をゆるやか
に弾き鳴らしているのは、まことに素晴らしく聞こえますが、また秋になって、
月が見事に明るい晩に、空は一面に霧がかかっていても、光が手に取るばかり
にくっきりと澄んで、そこに風の音や虫の声が加わって秋の風情を取り集めた
心地がする折に、筝の琴をかき鳴らすのが聞こえてくる、横笛/yo:dyo:を吹き
澄ますのが耳に届く、という時には、春などが何でよいものかと思われますよ。
また、そうかと思えば、冬の夜に空まで冴えわたってひどく寒い折、雪が降り
積もって月に照り映えているところに、篳篥/hichirikiの音がふるえるように
聞こえてくるのは、春秋の風情もみな忘れてしまいますよ」と語りつづけて、】
No.7865 『更級まで夢をみて』(5−14) 大伴茫人 [2008/09/23(火)16:54:29]
 【親しくしている者どうしが、局を隔てている遣戸を互いに開けて一つの部
屋にして、話などをして暮らす日に、もう一人の親しい人が宮のお前に伺候し
ていらっしゃるのを、下がってくるようにたびたび呼びにやると、「『どうし
ても来よ』というのならば行きましょう」という返事なので、そこにあった枯
れた薄に結びつけて、

  冬枯れの篠の小すすき袖たゆみまねきも寄せじ風にまかせむ
     /shino /o                        】

 これも宮仕え生活の一こまだけれど、これはほとんど歌にしか意味がないの
で、こういう《即興歌》を詠んだという手控え。
 〈冬枯れて穂がそがれてしまったすすきは、振る袖が疲れてしまったので、
あなたを招き寄せることもしません。おいでになるかどうかは、風まかせで、
あなたの気持ちにまかせましょう〉というものだけれど、これは、『古今集』
秋歌上の、

  秋の野の草の袂か花薄穂に出てて招く袖と見ゆらむ  在原棟梁/muneyana

 〈秋の野の草の袂でもあるというのだろうか、花薄は。穂を出して目立つよ
うに、態度に出して恋しい人を招く袖のように人には見えるだろう〉を踏まえ
ながら、これを逆用している。つまり、本来は薄の「穂」のような袖で招くの
だけれど、それが「篠薄」だからもう「穂」がなくなったので招かない、とい
うわけだ。それから、「枯れた薄」に付けたのも意味があって、相手の気持ち
がこちらから「離れ/kare」 ているという意味を含めた。「枯れ」と「離れ」
はしょっちゅう使われる《掛詞》。これは、《即興歌》として、我ながらうま
いと思うから書き残したもの。
 場面に出てくる「遣戸」は、敷居と鴨居の溝を滑らせて開閉する引戸のこと。
これに対して、部屋の隅にあって両開きになるのが「妻戸」。これは、前に宮
中の「藤壺」の場面で出てきた。この時代の家屋の内部構造は、非常に柔軟性
があって、ほとんど作りつけの壁をもった部屋はないから、こうして広くする
ことも狭く仕切ることもできるのだ。壁のある部屋は納戸として使う場合で、
特別に「塗籠 /nurigome」という。
 呼びにやった女房には敬語がついているから上臈の人なので、そう無理な呼
び立て方はできない。だから、何度かそれとない形で呼んだ。それで、相手が
「どうしても」というならばと返事してきているわけだ。初めから強く呼んだ
のならばこうは言わない。
 それでも、こういうことを書いておいて、その結果がどうなったのかは書い
ていない。これが《歌物語》らしいところ。《歌が詠まれることになった状況》
さえ示せばそれでよいのだ。《歌で切る・締める》のが本来の歌物語。
No.7864 『更級まで夢をみて』(5−13) 大伴茫人 [2008/09/22(月)16:53:52]
 【宮のお前に臥して仮寝をしながら聞くと、庭の池の鳥たちが、夜通しそれ
ぞれに鳴いて羽ばたきさわぐ音がするので、目も覚めて、

  わがごとぞ水のうきねに明かしつつ上毛の霜をはらひわぶなる /uwage

 と独り言につぶやいたのを、傍らに寝ていらっしゃった人が聞きつけて、

  まして思へ水の仮寝のほどだにぞ上毛の霜をはらひわびける
                                 】

 宮が寝る御帳台の近くでの宿直の場面。ここでは会話をしているわけではな
く、実際に臥して寝ているのだけれど、たまのことではぐっすり寝ることなど
できるわけもない。そこでつい口づさまれてしまった歌を、常勤の女房に聞き
とがめられたのだ。敬語を使っているから、上臈の人。
 私の歌は、「うきね」に「憂き」と「浮き」が掛かって、〈鳥たちは、私の
ようにつらい気持ちで水の浮かんで寝ながら、表の毛におりる霜をはらいかね
ているようだ。私も辛い気持ちをはらうことができない〉というもので、それ
に対する、〈まして思ってみてください。水の上で仮寝をするように、時たま
の宿直にすぎないあなたでさえ辛さを払えないとおっしゃるのですね。それな
らば、いつもお仕えしている私はどれほどでしょう〉という返歌が、もっとも
だと思わせるものだった。
 このように、思いもしないのに即興で返歌がとんでくるというところが、前
の話と同じく宮仕え生活の中ならではもので、ここでもそれが書きたかったの
だ。ただ辛いということだけならば、特に書き残す意味はない。
No.7863 『更級まで夢をみて』(5−12) 大伴茫人 [2008/09/21(日)17:04:34]
 【冬になって、月もなく、雪も降らないものの、星の光でさすがに空がくま
なく寒いように澄みわたっている夜、殿のお住まいのほうに参上してそちらに
伺候する女房たちと話をしながら一晩を明かすことが何度かあったが、夜が明
けて立ち去り立ち去りして下がってきた折々のことを、そちらの人が思い出し
てこう詠んできた。

  月もなく花も見ざりし冬の夜の心にしみて恋しきやなぞ

 私もそう思っていたことなので、同じ気持ちであるのも面白く感じて、

  冴えし夜の氷は袖にまだ解けで冬の夜ながら音をこそは泣け
                                 】

 頼通公の邸は、東洞院大路の東に、土御門大路を隔てて南北にわたっていて、
北が高陽院/kaya-no-in で殿のお住まい、南が高倉殿で祐子内親王のお住まい
になっていた。そのために、どちらの女房たちも互いによく行き来していたの
だ。ここでは、「立ち去り立ち去り」だから、私が訪ねて行って別れてきた場
面。それも反復して書いてあるから、そういうことが何回もあったということ。
それをあちらの人が「思い出して」だから、これはその当座のことではなくて、
次の年に前の冬を思い出して、その年には出仕していなかった私のもとに贈っ
てくれたもの。
 歌は、〈月もなく花も見なかった冬の夜が、心にしみて恋しいのはなぜでし
ょう。それだけあなたと過ごしたことが楽しかったのですね〉というもので、
とても親しい思いが籠っている。私は、〈冴えた夜に、しみじみとした話に流
した涙が凍りましたが、その氷が袖にまだ解けないで残っていて、冬の夜どお
し、あなたが恋しくて音を立てて泣いていることです〉と返したけれど、これ
は、今は会えない悲しさを歌っているというより、相手が《楽しさ》を含みに
したような歌を贈ってきたので、それと同じ趣向では返せないから逆に《悲し
み》のようにして詠んだもの。
 これは、私としては重要な記事。宮仕えをすれば多くの人と接することがで
き、ただ引っ込んでいたのでは触れることのない「同じ気持ち」の人が、この
生活の中にはいて、そうした人と一晩中語りあって過ごすこともできたという
ことを書きたかったのだ。だからこそ、私のほうから相手の所に出向いて行く
ということを何度もしたわけだ。引っ込み思案な私がそうするくらいだから、
そうした《清談》ともいえる語り合いがどれだけ楽しかったか想像して欲しい。
やっぱり、宮仕えは、嫌なことばかりではなくて、良い意味でも家庭生活とは
違っていたのだ。
 もう一つ、ちょっと重要なことがここの初めのほうに書いてある。「星の光
でさすがに空が隈なく寒いように澄みわたっている夜」と描写しているのがそ
れで、古代日本の記事としてはかなり珍しいのだ。というのは、「星」という
のは「空の穴」として忌まれていたので、ふつうは書かないし、そもそも関心
をもたないからだ。書くとすれば「北斗星・昴・彦星」などの特定の星だけで、
一般的な「星」というのは滅多に文章に現れない。その点からすると、これも、
私のもつ常人とは異なった《感性》のなせるわざかもしれない。
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源氏の部屋